突然の旅人

大した話でもない黒坂修のアホ旅日記

飛行機のくそばばあ

何に見えるだろうか。

飛行機で寝ているばあさんである。ご存知のように、人間は歳を取っていけば心が大きくなったり柔和な表情を身に着けていくとは限らない。
俺は鹿児島行きに乗り込み通路側に座っていたばあさんに「すみません」と言って俺の窓側席へ入ろうとした。しかしばあさんは立ち上がって俺を通そうとはしないし、露骨に嫌な顔を向けて何やらぶつぶつ言いながら動かなかった。俺より後から乗ってきた客が俺にせき止められて列になっていく。「すみませんがちょっと通してもらえませんか」と言うとばあさんは何も言わずに自分の膝を跨げというジェスチャーをした。仕方ないので俺はばあさんを跨いだのだが、ばあさんの足元にはいろいろなものが置かれており俺は足を取られてひじ掛けに左ケツから倒れこんだのである。そして、その時、ばあさんは「あーあーっ!」と声を上げ、左ケツのあたりにザワザワっという感触を覚えた。触ってみると去年バーゲンで買ったばかりのイタリアロロピアーナ製生地のスラックスの左ケツ部分が20センチにもにわたり激しく破けていたのである。
ああっ、なんということなのだ!
「あーあーっ!」じゃねえだろうが!
このくそババア!
俺はババアを張り倒したい気分を何とかこらえ、鹿児島まで破けたケツを触り続けていた。ババアは何もなかったかのように眠り続けていた。

東京より5度は暖かい鹿児島・天文館界隈は笑顔を浮かべた人々で賑わっていた。同じ週に行った札幌は昼間でも➖4度だったので20度近くも違うことになる。コンビニでガムテープを買いホテルでケツの応急処置を行った。前回の「じじい狩り」で書いた働かない老人が若者からいじめられる時代になれば、あんな底意地の悪いばあさんはひとたまりもなく社会から排除されるだろう。
地元の会社の社長さんに黒豚料理を奢ってもらい翌日はゴルフをやった。強烈に美味い大量のカツやしゃぶしゃぶを焼酎で胃袋に流し込んだ。札幌では大量のウイスキーを飲み毛ガニを無心に食い続けた。このままでは俺のメタボは進行を続け糖尿病や動脈硬化に向かっていき倒れるだろう。
今年ほどゴルフをやった年はない。55回はラウンドした。そのうち36回は例の毎朝腹筋背筋を100回やりアプローチ練習もやっているアホな昭和漫才師顔ゴルフ狂とである。対戦成績はなんと17勝17敗2分けという結果であった。最終戦津久井湖ゴルフクラブだったが、昭和漫才師顔が終盤17番ホールのガードバンカーから放ったボールがグリーンを遥か超えてOBに消えていき呻き声が響き渡った時、俺は嬉しさのあまり「オービー♫オービー♫」と叫び両手を挙げてカニ走りをしていた。日頃、我々とラウンドする残り二人のお客さんは、そんなスポーツマンシップのかけらもない下品な光景にまず唖然とするが、ラウンドが終わると「実に愉快な対戦を見せていただいた。会話が楽しすぎる。またぜひやりたい。次はうちがご招待したい。」となることが多く、そうなると仕事も前向きに進展していくのである。
その後、俺は破けたスラックスを「ママのリフォーム」に出したが、修理代は6千円だった。ちくしょうっ。

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年が明けた。
12月24日に「ママのリフォーム」に出したスラックスは1月1日の引き取りだった。「ママのリフォーム」は元旦から営業しているのである。

なっ!なんという出来栄えなのだろうか!!20センチもにわたりL字に引きちぎれていたのに!
そりゃよく見りゃわかるが、おっさんのズボンの左ケツ内側をよく見る奴はいないはずである。6千円以上の価値があるプロの仕事というものだろう。当然俺は店頭で激しく絶賛した。店の姉さんは嬉しそうに赤くなっていた。
そういえば正月早々から働いている若者に関して俺は3日に至るまで爽やかな気分を味わい続けている。元旦の夜中にネットがつながらなくなった時のイッツコム電話オペレーター青年の要領よく感じがよい受け答え、近所のコンビニ兄ちゃんのはきはきした受け答え・・・、そして3日には小平へお墓参りに出かけたのだが墓地の手前の店で花と線香を買おうとして車を路駐すると、若いおまわり2人が車2台に違反切符を切っていた。俺はバイクの荷台で切符を作っていた奴に「そこで花買うだけなんだけど捕まえねえよな?」というと、メガネで5頭身の33くらいのおまわりは「もちろんです。ご心配かけましてどうもすみません。」と頭を下げていた。
俺も20代のころは正月もないような仕事をしていたが常に荒れていた。深夜の誰もいない会社でコピー機が壊れた時、興奮して絶叫しコピー機の腹を何回も蹴り上げ変形させたことを思い出す。

じじい狩り

かなり長い間更新していない。続けて読んでくださっている方の中には、「こいつ、とんでもない境遇に堕ちたのではないか」とか「死んだんじゃないだろうか」とか思う人がいるかもしれないので、とりあえず書き出してみた。9月に娘の結婚式を終え、仕事とゴルフでハワイに行ってからは、旅らしい旅はしていない。仕事で東北から九州まであちこち動いてはいるのだが…。
小さくくだらない話を二つ三つ並べてみたい。

信州松本には翌朝の会議に備えて前日の夜に入ることにしている。東京より7〜8度は寒い松本に19時ころ到着すると、俺は少し離れた日帰り温泉施設に向かう。人影まばらな露天風呂に「あああー」などとオヤジらしく大声を上げながら浸かりこみ夜空を見上げるのは悪くない。写真は温泉の隣にある「くら寿司」店内である。くら寿司はご存知の方も多いと思うが、生易しい回転ずしではない。回転している皿のネタは干からびているので、1席に1個設置してあるディスプレーに食いたいものを入力すると出来立ての寿司やみそ汁やカレーがザーッと音を立てレールに乗り自分の前までやってくる。やってくるとピーピーサイレンが鳴りすぐに皿を取って音を消すボタンを押さないと隣近所の客に睨まれる。
俺は、その都度鳴り喚くサイレンの時間を短縮しようとして皿を取る前に消音ボタンを押してみたのである。すると、取ってないのに皿がすごい勢いで調理場へ引き返し始め、俺のびんちょう鮪が逃げていこうとしたのである。その時俺は立ち上がり強引に皿をつかもうとしたのだが、皿は激しくひっくり返り、なぜかびんちょう鮪の刺身だけが空中を舞いなんととなり客の頭に着地したのだった。俺もとなり客も「わーっ!」と叫び俺は当然激しくお詫びをした。となり客は35歳くらいの工事現場監督風で丸顔の大男だった。男は、「いえいえ。大丈夫ですよ。」と朗らかに反応したうえ、驚くべきことに、散乱したシャリに頭のマグロを乗せて俺に返すという想像を超える親切まで見せつけたのである。
冷え込む信州松本のさびれた回転ずしで一人食いながら、偶然隣り合わせた見知らぬおっさんにマグロをぶつけられてもにこやかに親切に振る舞う青年。俺は返却された寿司に礼を言いながら秘かに素早く捨てた。

11月に宮崎で3日連続のゴルフをやった。松山選手も参加したダンロップフェニックストーナメントの翌日に同じピンセッティングでプレーするという貴重な体験だった。「最近は90前後ですね」などと大口をたたく若造どもはみな107位打っていた。俺も101を打ってしまった。

ゴルフといえば、上は俺の家の近所の練習場の平日朝9時半ごろの様子である。高齢化社会はすごい勢いで進行している。下は平日に接待ゴルフで出かけた津久井湖カントリークラブのレストランである。ここは都内から近いこともあって平日でも老人が押し寄せ予約が取れないことが多い。

平日のスポーツクラブや図書館やドトールコーヒーにも苦虫つぶした顔の老人があふれている。そのような老人はそこにいるだけで周囲を暗い雰囲気に染めている。眼が合うと敵意を帯びた悪いツラになったりもする。
五木寛之は近著「孤独のすすめ」の中で、超高齢化社会は「搾取する老人階級」と「搾り取られる若者・勤労者階級」による階級闘争が始まるだろう、と予測している。若者1人が高齢者3人を養うような時代はすぐそこまで来ている。今のところ老人は大威張りであちこちを占拠しているが、そう遠くはない未来には、平日の朝からゴルフで遊んでいる老人や健康ランドラドン温泉に浸かって真っ昼間からビールを飲んで文句を垂れている老人やだらだら歩いている老人が、突然若者から罵声を浴びたり、石を投げられたり、殴られたりする時代になるだろう。若者が老人を痛めつける「じじい狩り」が横行するようになり、働かない老人を一人始末すると報奨金いくら、などという恐怖の未来を描く映画ができるだろう。来年還暦の俺はそんな時代の真っただ中を生きていくことになる。俺は武装老人部隊を結成して身体を鍛え訓練を積み「じじい狩り」と戦っていく覚悟である。

年末セール中の木更津アウトレットにジャケットを買いに行った。バーニーズ、ボスなどいろいろ覗いてみたが全て腹のボタンが閉まらなかった。閉まるサイズを試着すると丈がハーフコートのようになるのだった。ちくしょう。ここも中高年者・じじいをいじめてやがるな・・。
サイズ問題ではないが、一番人をバカにしたショップはエルメネジルドゼニアだろう。入店すると奥のスペースのジャッケットコーナーには80%OFFと書かれている。しかし、80%OFFの正札を見ると14万とか15万なのである。おばさん店員がやってきて「80%OFFでお買い得です」と言うので「アウトレットなのにジャケット一つで定価70万なの? 定価が気が狂ってんじゃないの?」と言うと赤くなり小さい声で「そうですね」と言っていた。ゼニアのジャケットアウトレットセール価格は30万円代が中心のようだった。他に同様に気が狂ったショップはダンヒルアルマーニなどが挙げられる。型落ち中心のアウトレットで、しかもセールと言いながら大したこともないジャケットを30万とか40万で売っている奴らなど潰れてもらいたい。
反対に気の毒になるほどの安値で売っていたのはカジュアル衣料のバナナリパブリックだった。店頭にはカシミヤ混だという薄手の色合いのよいセーターが積まれていて定価7,000円を2,800円に、さらにそれを翌日まで2割引に、と言うことだった。俺がカシミヤの割合をチェックしようと服の裏のラベルを探していると、メガホンで案内していたリーダー格の男がやってきて「材質ですか?」と言い、「カシミヤとシルクとコットンなんです」などと迷いなく堂々とハキハキ言うので俺は「ちょっとしか入ってない方から言うなよ。言う順番が反対だろ」と言うと「すみません」と言ってもぞもぞしていた。カシミヤが3%でも2~3枚買おうとしていたのだがやめにした。

ひどい遅れや不通が常態化して叩かれまくっているクソ路線、田園都市線鷺沼駅の朝である。今日も渋谷まで10分遅れていた。そして、叩かれているのでお詫びのアナウンスが毎日しつこくうるさくまた腹が立つ。すし詰めの急行に乗ると、鉄の柱に押し付けられて本当に骨が折れそうになるほどひどい。急ブレーキではドミノ倒しとなり俺は一度仰向けに後頭部から転倒して逆さになったゴキブリとなった。乗客が卒倒して遅れることも常態化している。しかしここにはジジイはいない。俺あたりがラッシュの最年長世代となった。
まじめに仕事をしてそこそこの家に住み平和に暮らしている人々が朝の30分だけ阿鼻叫喚の別世界で時間を過ごす異常さ・・。こんなひどい路線にした要因は、東急の乗客置き去りの企業論理優先の無謀な路線延伸、売れるだけ売れればよいという計画性のない宅地開発によるものである。ゴキブリにさせてしまった人には10万円はお詫びをしてもらいたい。東急電鉄の社長や専務は黒塗りで通勤してるんじゃねえだろうなっ。お前らも地獄のラッシュを味わってみろや。
家をこれから買おうとしている皆さん、田園都市線沿線はやめたほうがいい。
・・・・、こうして悪評が悪評を呼び中古マンション相場が暴落しねえかなぁ。
日々つまらん文句やくだらないことを言いながら今年もあと2週間である。

アロハの心


ワイキキからダイアモンドヘッドを左手に見ながら閑静な住宅地をクルマで10分行くと広大なカハラリゾートホテルに到着する。


1960年代から各国要人・王族やハリウッドスターが訪れてきた高級リゾートは、いまは日本のリゾートトラストの傘下に入っている。ホテルに隣接するのは名門ワイアラエカントリークラブ。1970年代に青木選手が日本人として初めてアメリカ男子ツアーで優勝したハワイアンオープンの舞台である。クラブメンバーである斎藤さんとおっしゃる地元在住の82歳のにこやかで穏やかな紳士とラウンドさせてもらった。俺は舞い上がり腕時計とサンドウエッジをコースに忘れて取りに戻ったりした。

ハワイに来たのは多分4回目だが前回が何年前だったのかはよく思い出せない。しかし、部屋の窓を開けたとたんに全身で浴びることになる、限りなくピュアに明るい幾層もの海と空のブルー、そしてどこか甘い香りがしながら少しだけ冷たさがある風に潮騒やら葉ずれやら遠い街の気配やらが混ざりあうと、もうその場に崩れ落ちるようなハワイ独特の快感に包まれて遠い日の記憶の塊がわき上がる。

ハワイには北からの貿易風が吹いている。独特の爽快感はドライな北風がもたらしているらしい。

俺は前にも書いたが、遺伝子分析の会社に自分のルーツの分析を依頼し、「4万年前に東南アジアで発生しその後ミクロネシアポリネシアを移動しながら南米大陸を経て再び太平洋の島々を移動しながら台湾、沖縄経由で日本にたどり着いた日本先住民」との回答を得ている。俺がハワイで崩れ落ちそうになったり沖縄に年に2回は行ってしまうのはそうした遺伝子と関係しているのだろう。ハワイの人も「あなたの顔はハワイ先住民で通るね」と言っていた。
俺は今回、前にも書いた毎日腹筋背筋を100回ずつやっているアホなゴルフ好きの昭和漫才師顔(よく見るとヤーサン顔ともいえる)の52歳の部下とともに、ハワイの日本語放送局KZOOとの様々な共同事業を確定させるためにホノルルを訪れたのである。(これは本当なんです) 奥さんが日本人のホノルル市長へ挨拶に行ったりもした。しかし、ゴルフをやったりうまいものを食ったりビーチで海豚を見たり真珠湾アリゾナ記念館やイオラニ宮殿を見学したり、なによりカハラリゾートにも泊まらせてもらうので、飛行機代を含めすべて自腹で行ったのである。漫才師顔も渋々同意していたが裏から手を回しているかもしれない。
そして、今回俺が心から感動したハワイはこのお二人なのである。日本語ラジオ放送局KZOOの社長であるデヴィッド・フルヤさんと副社長ロビン・フルヤさんはご夫婦である。

日系三世でもちろん母国語は英語である。到着の空港へクルマで迎えに来てくれてから、仕事以外の観光やゴルフや朝昼晩の食事まで時間刻みですべて付き添い途切れることのないハッピーな笑顔とトーク満載で面倒を見てくれるのである。俺たちは接待を受ける立場ではないし、また、彼らにもそんな気は毛頭なく、とにかく友達がハワイに来たら一日中楽しんでハワイのオハナ(家族)のように付き合おうよ、というのがアロハスピリットというもののようなのである。時々、15歳のかわいい娘さんジャジーが登場したり、その友達の女の子たちも登場した。ビールを飲みながらの夕食にはデヴィッドとロビンの友達夫婦や仕事仲間も参加したりして、そんな時には俺もやや調子にのりひどい英語を使いながら、むかし漫才師顔が仕事から家に帰ると家具がすべてなくなっていた話や、表情が変わらない中国人ゴルファーの恥ずかしさの真似や突っ張った顔で偉そうにラウンドしている韓国人ゴルファーの真似をするなどして大笑をとるのが非常に楽しかった。デビッドはとにかく底抜けに明るく優しい。57歳だが屈託ない笑顔がかわいい。よくビジネスをやっているなぁと思ってしまう。ロビンはとにかく親切で我々の気持ちを常に読んでいて面倒を見ようとしてくれる。デビッドをよい方向に仕向けてバランスをとっているのがよくわかる。
デヴィッドとロビンは、俺たちが楽しむ度に嬉しそうな屈託のない弾ける笑顔となり、さらに面白いことを提案しようとしてくれる。

デビッドは1年で8キロ太ってしまい、「写真写りの二重顎が恥ずかしいよ」と言っていた。俺が「写真に写るときは首を伸ばすといいよ」と言うとすぐ実行していた。
漫才師顔男はゴルフは大好きだが、真珠湾やハワイ王朝の宮殿にはほとんど興味がない。腹筋背筋を鍛えているのに3日めあたりから疲労困憊となりはじめ帰る前夜遅くにクルマの中でデヴィッドに「明日は朝8時からハナウマベイに行くから○○○さんは泳ぎなよ、シュノーケルとかヒレとか借りとくよ」と言われたとき、返事が曖昧だったので俺は「いくんだろ?」というと「もちろんです。楽しみです。」と言いながらも5〜6歳老け込んだように悲しそうだった。しかし、漫才師顔も「本当にいい人たちですよ。こんなにあったかい人はいませんよ」と、俺に教えようとしていた。「お前の説明はいらない」と言うとニヤニヤしていた。

俺はアラモアナセンターにあるKZOOの大きなサテライトスタジオを見学しながらビールを飲んでいたのだが、突然そこで進行中の生放送に出演することになった。DJの女性の挨拶がわりの質問に短く答えた後、何も言うことがなかったので「ハワイの今日の繁栄は皆さん日系人の長年の努力の賜物でありいまはとにかく北のジョンウンがヤバイわけです・・」などと訳のわからんことを言い、「皆さんへのエールです。フランク・シナトラ・・マイウェイ」と言いかけたところで咳き込んで「マイググうえげほっ」で退場となったのだった。その後、デビッドとロビン、DJ、なぜか勝新太郎のマネジャーだった人夫婦と食事をし酒を飲んだが、みんな俺の出演を聴いていたと言っていた。笑い合いながら飲んでいるのにその話になると勝新マネジャー氏は「なかなかいい声ですねえ」などと言いながらも、座が数秒固い雰囲気になったことが辛かった。



今回、腹筋背筋男とのゴルフは1勝1敗だったが、プロ級のデビッドからいいことをいくつか教えてもらった。負けは一打の違いだったが、最終ホールで漫才師がそこまでの俺のスコアを一打多く言わなければ勝っていただろう。ハワイの雄大なコースに来てまでせこく勝とうとした腹筋男に対しては夜の酒席でハワイの皆さんの前で罵倒を行い笑い者の刑を執行したのだった。
(なお、KZOOとの間では年内に儲かる仕事一件、来春から徐々に儲かっていくヒジネス一件を練り上げ確定させたのでした。)

入江一子シルクロード記念館


NHK Eテレの「日曜美術館」で入江一子さん特集をやっていた。1916年生まれで101歳、今も創作を続ける入江さんの作品を展示し、阿佐ヶ谷のご自宅に併設されたアトリエでもある「記念館」へ行ってみた。俺はゴルフばかりやっているわけではない。

もちろん美術に造詣が深いわけではないが、Eテレで初めて観た入江さんの作品に俺は激しく吸い寄せられたのだった。今回掲載する写真は入江さんの画集やポストカードを撮影したものである。(勝手にやってすみません!)はじめの作品は「カリアン広場(ブハラ)」、次は「トルファンの祭りの日」。ウズベキスタンのブハラやサマルカンドには出来れば2〜3年くらいの間には行ってみたい。トルファンは俺も7年前に旅した中国新疆ウイグル自治区の砂漠のオアシスである。灼熱のトルファンは、夏の最高気温は45度ぐらいまで上昇するが夜は20度くらいまで下降する。俺が行ったのは祭りの日ではなかったが、真っ暗な夜にそこだけが照らされ浮かび上がったような葡萄棚の下で夜8時頃から始まるウイグル人の歌舞ショーの鮮烈で幻想的な光景を今もはっきりと思い出す。そして、入江さんの作品はその記憶をさらに美的に高めて刻み直してくれるのである。なんと言う光と色彩の美しさ!なんと言う具象と抽象のバランス感の心地よさと美しさ!優しい眼差し!

トルファンからクルマで30分ほどにある灼熱の「ベゼクリク」。洞窟が連なり、1700年前から描かれていた仏教壁画は20世紀初頭のイギリス人やドイツ人探検家の盗掘でえぐり取られていた。

イスタンブールの朝焼け」。
朝焼けは観なかったが、マルマラ海の水平線と空が赤紫に染まっていくイスタンブールの夕焼けは俺も観た!

入江さんは1960年代後半、50歳を過ぎてから困難を極めるシルクロード各所への取材・スケッチ旅行をはじめたのだそうだ。上の作品「四姑娘(スークーニャン)山麓の青いケシ」を創作するにあたって76歳の入江さんは、どうしても青いケシの花を観たくて酸素ボンベを背負い、テントに寝泊まりしながら徒歩を続け、標高4300mの中国四川省奥地の村にたどり着いたのだそうだ。

入江さんは、主に50代後半以降からこれだけの取材・スケッチ旅行を敢行してきたのである。有史以来シルクロードを東西に形作ってきた多種多様な人種・民族の連なり・・数千年の歴史を経て今なお一つ一つの民族が織りなす独自の文化と生活、砂と岩山と猛暑、厳寒という美しくも厳しい自然環境を舞台とした人間の喜怒哀楽・・・それを垣間見て歩くことが将来の夢であり目標でもある俺にとって入江さんの作品群は、観たいもの感じたいものがそこに描かれているように感じられるのである。

カシュガルの昼下がり」。
カシュガルは中国新疆ウイグル自治区の中でも最西端の町であり、7000メートル級が連なるカラコルム山脈を超えるとパキスタンとなるシルクロードの要衝である。俺は、顔の彫りが深くて歯が欠けた白い帽子の爺さんたちが歌いながら得体のしれないものを売り、イスラムなのに色鮮やかな衣装をまとって碧眼も多い女たちが市場やモスクに溢れているだろう土煙りのカシュガルへ、この夏に行けないものかと思い、飛行機の乗り継ぎを調べてみたが、まず羽田か成田から北京か上海か西安へ行き、そこからウルムチまで飛び、さらにカシュガルまで飛ぶことになる。ウイグル自治区ながら今や漢族が完全に掌握している州都・ウルムチを経なければウイグル人は直接北京や上海には行けないようにわざと不便にしているのだろう。また、簡単には外国人が行けないようにもしているのだろう。
カシュガルには行き帰りにまるまる4日かかる。行けないことはないがこの夏はやめた。

パミール高原」。
カラコルム山脈天山山脈の麓に広がる標高5000メートルの高原は中国、パキスタンアフガニスタンキルギスタジキスタンの5カ国にまたがっている。ここもあと5年以内には行くことにしたい。5年経つと64だが入江さんは76歳で四川省の山奥まで歩いたのである。
NHKの番組の後半で101歳の入江さんは「だんだんに絵がわかってきて、おもしろくて、絵がよくわかるんです。情けないのは体力が一番心配なんです。」と言っていた。今も1時間描いては眠りまた1時間描くという命がけの創作活動を続けている。
「入江一子シルクロード記念館」には30分ほどの間に10人くらいの人が来館していた。70代の人たちである。入江さんは101歳になって「だんだんに絵がわかってきて・・」と言い、入江さんの作品を見に来る人たちは70代・・。美しさの奥深さを感じ取れるようになったり、創造者がそれを表現できる境地に達するには長い時間の積み重ねが必要なのだろう。それにしては人の寿命は短かすぎる。入江さんのような人には50年後あたりとも言われている120歳が珍しくない時代を生きてもらいたかった。

青森・夏泊カントリークラブ


夏泊カントリークラブは、青森の下北半島津軽半島に挟まれて青森湾に突き出た夏泊半島の突先に広がっている。青森市内から浅虫温泉を超えて干されたホタテ臭が漂う沿岸道路を進むと突然スコットランドのコースのような荒涼とした美しさの中に入っていく。
これまで長い間書いたことはなかったが俺はかなりのゴルフ好きなのである。高校1年の時、親父が好きだったこともあり、まだ友達が誰もやっていないスポーツをやろうと思いゴルフ部へ入った。しかし、毎日つまらん素振りをやらされたり、真夏に夜明けとともに重いキャディーバッグを担いで打ったら走る2.5ラウンドで倒れそうになったり、部員がつまらない奴らだったので秋には辞めた。その後ボート部へ移籍したが、毎日のバーベルと毎週末の戸田漕艇場通いで遊べなくなったので数か月で辞めた。その後はモダンジャズという音楽に驚愕して傾倒し、大学を出るまでバンドとその周辺にある酒や遊びや金稼ぎに興じて生きていた。当時の金稼ぎのための売り込みや交渉やかっこつけたいサラリーマンへの吹っ掛け方などはいまの仕事にかなり生きている。当時の仲間で今だにバンドで食っている奴もいるが、そういう奴らは金はなくてもみんな明るく嘘のないすがすがしい顔をしている。
その後、俺は親父お袋のコネを使って放送局の入社試験を受け、コネで内定をもらいながらも卒業単位が二科目足りずに世田谷と久留米の教授の家に酒の土産を下げて朝から座り込んで土下座をしながら「病弱な親父に代わって私が就職して稼がねばならないのです」などと噓を言って同情を買うことに成功し、今に至るのである。
落第しそうだった頃、大学のロビーにいた時、事務室の方からどこかのオヤジが乱入して大声で騒いでいるのが聞こえたことがある。「お前らせがれを卒業させろや!いい会社に入れたんだから…邪魔をすんのはやめろや!」…そっと覗くとそれは俺の親父だった。親父はその後一言もそれを話さなかった。礼を言うべき親父には礼を言えないまま25年前に旅立ってしまった。お袋は、「落第したら1年ぐらいアメリカにでも渡って放浪でもするのね」と言っていた。俺はお袋のおおらかさと器のでかさに2年前に至るまで救われてきた。

夏泊カントリーが印象的だったのでゴルフについて書こうと思ったらだいぶ違う話になった。こんな話に付き合っていただき申し訳ない。
俺は今年に入ってからもう18回もゴルフをしている。ゴルフ再開後30年以上経つが、相変わらず短いパットを外して喚いたり、アプローチをダフッてクラブを叩きつけたりしてキャディーのおばさんに「プッツンこないの!」と怒られたりしている。しょっちゅうラウンドする7つ年下の昭和の漫才師顔の部下がいて、こいつは俺以上のゴルフ狂でありゴルフのために毎日腹筋背筋を100回ずつやっているアホな奴であり、いいやつなのだが勝負は毎回互角となり、俺はこいつが打つ時に時々ではあるが意識を集中して邪念を排して失敗を念じている。
「最高の休息法」という本を書いた脳神経の先生によると、現代人の脳は疲れ切っているらしい。現代人は過去を悔やみ未来を悩み心配することに大半の時間を使い、「今この時だけ」に意識を集中することがあまりに少ないからなのだそうだ。「過去と未来」が脳を疲れさせ「今この時への集中」が脳を蘇生させるのだそうだ。ゴルフをやっていると、OBを打ったりざっくりやったりすれば激しく怒り、ナイスショットすれば狂喜して「OK牧場!!」などと叫んだりする。「今この時だけ」になれる時間はもちろんゴルフだけではないが、俺にとってゴルフはその性質が強いのである。

プラハ・ワルシャワへ 5



プラハは犬が多い街である。人口約130万人に対して登録犬数は約9万匹。東京の場合は人口約1370万人に対して登録犬数は52万匹である。人口に対する犬率はプラハ6.9%、東京は3.8%になる。多分こんな計算をしているのは俺くらいだろう。
トラムに乗っても地下鉄に乗っても犬がいる。レストランやカフェにも犬がいる。主人がビールを楽しむテーブルの下にも犬がいる。そして、リードをさせられていない放し飼い状態の犬が多いのだが、一回も悪態をついたり吠えたりするのを見かけなかった。

海外の一人旅で、食事に困るという人も多いようだが俺はあまり困ったことはない。ガイドブック「地球の歩き方」のレストラン紹介で事前に目星をつけておき、1日1回はまともなレストランに行くようにする。「地球の歩き方」は素晴らしい。取材の細かさが他誌とは違う。現地語や英語のメニューなど見るのは面倒なので「地球の歩き方」の現地名物料理写真を店員に見せて「ギブミーディスディッシュ」と言うのが一番スムーズであり店員とも笑いあえる。
到着翌日に、プラハ18年在住の頭の回転が早いソプラノボイスの日本人ガイドさんに街を案内してもらったのだが、現地人に評判が良いまずまずのレストランと聞いた店に行って見た。俺は旅の初日の午前中に現地ツアーを予約して、ガイドさんに本に出ていないことを教えてもらうことにしている。
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これはなかなかうまかった。ビールを2杯飲んでトータル2,000円くらいである。プラハはレストランやカフェの料金が安くてよい。旧市街広場に面していたが店の名前は忘れた。
下は2時間以上も雨宿りをさせてもらった有名店、1881年創業の「カフェ・スラヴィア」。チェコ民主化運動のリーダーで、民主化後の初代大統領となったヴァーツラフ・ハヴェルも通っていたそうだ。
メニュー表紙の絵は、チェコの画家ヴィクトル・オリヴァの「アブサンを飲む男」。老境に差し掛かったしがない男が一人禁断の酒をやりながら夢想に耽る・・・もしかすると俺と同じ席に座っているのではないか。

時刻は20時半から22時半・・カプチーノとミネラルウォーターで通りに面したテーブルを一人で独占し続けちゃ悪いと思い、ウエイターを呼んでメニューを見ながらストロベリーアイスのなんとかかんとか書かれているやつを注文した。スマイルを絶やさないウエイターは「リアリーイートジス?」と言ったが「イエスプリーズ」と答え出てきたのがこれだった。

見た通りの味で美味かったが半分も食えなかった。
店を出て雨の中を歩き出すと、びしょ濡れのカップルが俺とハイタッチをして通り過ぎて行った。

プラハの街は縦横に路面電車トラムが走っていて、3つくらいの路線を覚えれば、あとは歩きで移動に苦労はしない。

新市街からトラムでヴルタヴァ川を渡ってプラハ城へコンサートを聴きに行こうとして、俺は反対方向のトラムに乗ってしまった。反対方向へ20分以上進むとヨーロッパ建築博物館の古都の華やかさは消えて行く。沈んだトーンの共産圏の色合いとなり足立区の団地のような煤けた集合住宅が目立ち始める。中心部を闊歩している多くは西欧からの観光客であり、このトラムの乗客がチェコプラハの人々ということになる。着ているものは地味で質素であり中心部のトラム内とは全く違っていた。
そういえば、前に書いたタクシー運転手が「給料は10万で家賃も10万だ。プラハは狂っている。だから夜と早朝に運転の仕事をしないと食っていけない。」と言っていたのを思い出した。
しかし、ホテルのお姉さんは「再来週日本旅行に行くの。日本は今寒いの? USドルは使えるの? ユーロは?」などと言っていた。このお姉さんは世界地図をきちんと見たことがないのだろう。多分お姉さんは雇われ人ではなくホテルを引き継いだオーナー家なのだろう。「東京ってどんなところ?」とも訊くので「ラージでクレイジー、エクスプレッションはプレイスによりコンプリートリーにディファレントだよ。カオスがチャーム。セーフティーでクリーンだ。」と言うと笑顔なく俺を見ていた。


ワルシャワで見た数少ない笑顔はこの子供達だった。この子たちはナチスドイツもソ連支配の暗黒時代も知らない。そう言えば、2年少し前、母と行った最後の旅行は箱根宮ノ下富士屋ホテルだったが、部屋まで案内してくれたのは研修で来ていた長身のポーランド人の青年だった。真面目で一生懸命な姿勢を見ながら母が「日本はどうか訊いてみて」と言うので訊いてみたが「みなさんとても親切でよい毎日です」みたいな実直なことを言っていた気がする。

プラハ・ワルシャワへ 4 (ワルシャワ編)

早朝7:05プラハ発、夕方19:40ワルシャワ発のチェコ航空ワルシャワ日帰りを実行した。片道1時間前後だからワルシャワ街歩きにはある程度の時間を取ることができる。
5月はじめのプラハも朝夕は冷え込むが、曇天のせいもあってかワルシャワは一日中東京の真冬だった。


ワルシャワの街はナチスドイツに徹底的に破壊され、今ある旧市街の歴史的な街並みは戦後忠実に再現されたものである。再現の精度は「煉瓦のひびの一本に至るまで」と言われるほどのものであり、世界遺産に登録されている。
しかし、こんな感想は言うべきではないのかもしれないが・・・、そうと知ってのためか、どこか計画的に作り出した印象が漂うのである。


メインストリートである「クラクフ郊外通り」から「新世界通り」。途中、旧王宮広場やいくつかの歴史的教会があり、コペルニクスの像がある。ベンチに座るとショパンの旋律が流れる仕組みである。

ワルシャワ中央駅がある市内中心部もドイツに跡形もなく破壊されたエリアである。歴史的な建築物は見当たらず街は無表情に平板であり、中欧の古都らしからぬ無骨な高層ビルも建っている。
1944年、ドイツ占領下のワルシャワ市民は、ソ連の策略に乗る形で蜂起し、ソ連にハシゴを外されてしまう。蜂起に対するドイツの報復攻撃は街を破壊し尽くし20万人を殺害し、ユダヤ強制居住区ゲットーのユダヤ人約40万人は銃殺されるか強制収容所送りとなり、戦後まで逃げ通せたのはわずか200人だったと言う。
戦後もソ連の衛星国として、全体主義思想に反するインテリの拉致、粛清まで行われていた暗黒共産主義時代44年を経て今のワルシャワがある。
たった9時間街を歩いただけで簡単に言ってはいけないのかもしれないが、ワルシャワの景観と空気感、磁場は陰鬱で重い。もちろん、陰鬱で重いから印象が悪いとか嫌いだとかという浅いことを言っているのではないことは前にも書いた。



ワルシャワのど真ん中には「文化科学宮殿」がそびえ立つ。ワルシャワ中心部のどこにいてもこの建物がまず目に入る。

何とも陰鬱で威圧感に満ちた建築物である。見ていると息苦しさを覚えるほどだ。タクシーの運転手に「ワルシャワの人はあの塔が好きなの?」と訊いてみたら「あれはスターリンが建てたビルだからね・・あまり好きじゃないよ」と言っていた。
やはり、この建築には悪い根性が満ちていたのである。調べると、1955年建造の文化科学宮殿はスターリンによるソビエトからワルシャワへの「贈り物」として建てられたのである。街中を見下して威圧し監視するソビエトによるポーランド支配の象徴物なのである。「ワルシャワで好きな場所は文化科学宮殿の展望台さ。文化科学宮殿を観なくてすむからね。」・・・現地のジョークとのことである。
ポーランドがドイツとソ連に占領されていた1939年、ソ連ポーランド軍捕虜収容所の2万2千人がスターリンの指令により「カティンの森」で虐殺された。


第二次大戦前のワルシャワにはヨーロッパでもっとも多くのユダヤ人が暮らしていた。ワルシャワ全人口の30%にあたる40万人のユダヤ人はその後ナチスにより作られた隔離居住区ゲットーへと移され、その後ほとんどはそこで虐殺されるか強制収容所送りとなった。ポーランドユダヤ人が多かったのは、ポーランドという国が歴史的に他民族に寛容な政策を伝統としてきたからである。15世紀以降、ポーランドではユダヤ人の自由が原則的に保障されてきたのである。そんな国に限って18世紀以降、ロシアやドイツやスウェーデンに蹂躙され続け、何度も国じたいがなくなったりという苦難が繰り返された。現在でもヨーロッパでは「反ポーランド主義」というものが時折頭をもたげ続けているという。理不尽・不条理に満ち満ちた世界…。
ポーランドユダヤ人歴史博物館」はゲットー跡地に2014年にオープンした。1000年間に及ぶユダヤ人の歴史が様々に展示され解説されている。
エントランスでリーダーらしい年配のおばさんに呼び止められた。「日本からですか?よく来てくれました。ありがとう。」・・・列の中から俺だけを呼び止めたことには何かの意味が込められている。
ポーランドは長い間リトアニアとの連合国だった。第二次大戦中、リトアニア日本領事館の職員だった杉原千畝ユダヤ人の亡命を助けるために命がけでビザを発給し続けた物語はあまりに有名である。関係があるのだろうか。

この「ワルシャワ編」では冗談やばかばかしい話を書くことはできなかった。


この人たちはあと何日生きられたのだろう。