突然の旅人

大した話でもない黒坂修のアホ旅日記

入江一子シルクロード記念館


NHK Eテレの「日曜美術館」で入江一子さん特集をやっていた。1916年生まれで101歳、今も創作を続ける入江さんの作品を展示し、阿佐ヶ谷のご自宅に併設されたアトリエでもある「記念館」へ行ってみた。俺はゴルフばかりやっているわけではない。

もちろん美術に造詣が深いわけではないが、Eテレで初めて観た入江さんの作品に俺は激しく吸い寄せられたのだった。今回掲載する写真は入江さんの画集やポストカードを撮影したものである。(勝手にやってすみません!)はじめの作品は「カリアン広場(ブハラ)」、次は「トルファンの祭りの日」。ウズベキスタンのブハラやサマルカンドには出来れば2〜3年くらいの間には行ってみたい。トルファンは俺も7年前に旅した中国新疆ウイグル自治区の砂漠のオアシスである。灼熱のトルファンは、夏の最高気温は45度ぐらいまで上昇するが夜は20度くらいまで下降する。俺が行ったのは祭りの日ではなかったが、真っ暗な夜にそこだけが照らされ浮かび上がったような葡萄棚の下で夜8時頃から始まるウイグル人の歌舞ショーの鮮烈で幻想的な光景を今もはっきりと思い出す。そして、入江さんの作品はその記憶をさらに美的に高めて刻み直してくれるのである。なんと言う光と色彩の美しさ!なんと言う具象と抽象のバランス感の心地よさと美しさ!優しい眼差し!

トルファンからクルマで30分ほどにある灼熱の「ベゼクリク」。洞窟が連なり、1700年前から描かれていた仏教壁画は20世紀初頭のイギリス人やドイツ人探検家の盗掘でえぐり取られていた。

イスタンブールの朝焼け」。
朝焼けは観なかったが、マルマラ海の水平線と空が赤紫に染まっていくイスタンブールの夕焼けは俺も観た!

入江さんは1960年代後半、50歳を過ぎてから困難を極めるシルクロード各所への取材・スケッチ旅行をはじめたのだそうだ。上の作品「四姑娘(スークーニャン)山麓の青いケシ」を創作するにあたって76歳の入江さんは、どうしても青いケシの花を観たくて酸素ボンベを背負い、テントに寝泊まりしながら徒歩を続け、標高4300mの中国四川省奥地の村にたどり着いたのだそうだ。

入江さんは、主に50代後半以降からこれだけの取材・スケッチ旅行を敢行してきたのである。有史以来シルクロードを東西に形作ってきた多種多様な人種・民族の連なり・・数千年の歴史を経て今なお一つ一つの民族が織りなす独自の文化と生活、砂と岩山と猛暑、厳寒という美しくも厳しい自然環境を舞台とした人間の喜怒哀楽・・・それを垣間見て歩くことが将来の夢であり目標でもある俺にとって入江さんの作品群は、観たいもの感じたいものがそこに描かれているように感じられるのである。

カシュガルの昼下がり」。
カシュガルは中国新疆ウイグル自治区の中でも最西端の町であり、7000メートル級が連なるカラコルム山脈を超えるとパキスタンとなるシルクロードの要衝である。俺は、顔の彫りが深くて歯が欠けた白い帽子の爺さんたちが歌いながら得体のしれないものを売り、イスラムなのに色鮮やかな衣装をまとって碧眼も多い女たちが市場やモスクに溢れているだろう土煙りのカシュガルへ、この夏に行けないものかと思い、飛行機の乗り継ぎを調べてみたが、まず羽田か成田から北京か上海か西安へ行き、そこからウルムチまで飛び、さらにカシュガルまで飛ぶことになる。ウイグル自治区ながら今や漢族が完全に掌握している州都・ウルムチを経なければウイグル人は直接北京や上海には行けないようにわざと不便にしているのだろう。また、簡単には外国人が行けないようにもしているのだろう。
カシュガルには行き帰りにまるまる4日かかる。行けないことはないがこの夏はやめた。

パミール高原」。
カラコルム山脈天山山脈の麓に広がる標高5000メートルの高原は中国、パキスタンアフガニスタンキルギスタジキスタンの5カ国にまたがっている。ここもあと5年以内には行くことにしたい。5年経つと64だが入江さんは76歳で四川省の山奥まで歩いたのである。
NHKの番組の後半で101歳の入江さんは「だんだんに絵がわかってきて、おもしろくて、絵がよくわかるんです。情けないのは体力が一番心配なんです。」と言っていた。今も1時間描いては眠りまた1時間描くという命がけの創作活動を続けている。
「入江一子シルクロード記念館」には30分ほどの間に10人くらいの人が来館していた。70代の人たちである。入江さんは101歳になって「だんだんに絵がわかってきて・・」と言い、入江さんの作品を見に来る人たちは70代・・。美しさの奥深さを感じ取れるようになったり、創造者がそれを表現できる境地に達するには長い時間の積み重ねが必要なのだろう。それにしては人の寿命は短かすぎる。入江さんのような人には50年後あたりとも言われている120歳が珍しくない時代を生きてもらいたかった。