突然の旅人

大した話でもない黒坂修のアホ旅日記

プラハ・ワルシャワへ 3


共産主義博物館」は、プラハ中心部の路地裏にある。

かつては街なかのあちこちに建立されていたはずの像が、ちょん切られて入り口に並べられている。

共産主義チェコスロバキアの小学校の先生である。難しいことや世の中への文句など言いそうもない従順な微笑みが共産主義チェコスロバキアの模範像だったのだろう。

使命感を持って勤務する警官ややる気と未来への希望に満ちた農民たち・・・。


全体主義」とはデジタル大辞泉によると「個人の権利や利益、社会集団の自立性や自由な活動を認めず、すべてのものを国家の統制下におこうとする主義。」ということになる。
そして、自由を追求するのが資本主義、平等を追求するのが共産主義とすれば、資本主義には平等はなく共産主義には自由はない。共産主義全体主義となる。共産主義では個人は国家のために労働し、国家は個人が財産を持たなくても必要な物やサービスすべてを保証する。・・はずであったが、実際には指導者に過度な権力が集中し個人崇拝と富の集中が起こり労働生産性は停滞し貧困とないはずの不平等と腐敗が蔓延して崩壊に至った。

チェコスロバキア共産主義体制下のポスターの数々…実に気色悪く不気味である。北朝鮮で「将軍様」を絶賛して派手な笑顔で手を叩く人々、嬉々としてマスゲームをやらされている少女たちの痛々しい姿が重なる。礼賛や笑顔や前向きな顔つきを強制されるのは本当に辛いことだろう。考え方や価値観まで強制されて発言させられたり手を叩かされる苦しさはいかほどのものだろう。正しいことを言うと怒られ拷問されたり殺されたりし、正しくないことを言ったりゴマを擦ったり賄賂を届けたりすると褒められたり出世したりする社会…。秘密警察が横行し、密告の監視網が張り巡らされた暗黒社会…。
こんな社会に生まれなくて本当に良かった。たぶん俺は酔っぱらって言いたいことを言って密告され、拷問で逆さに吊るされたり水攻めにあったりするだろう。

1989年に立ち上がった民衆が警察隊に「君たちの任務は国民を弾圧することではない。国民のために働くことだ」と叫んで向き合っているテレビ映像。もちろん立ち上がった人々もすごいが世界に現実を見せつけたテレビ局の勇気もすごい。既得権者の側にいたはずのテレビ局幹部もえらい。自分たちは高給を取り、安住の地を確保しながら、右にならえの中途半端な報道に終始して体裁を整えている日本の大手マスコミは、やがてネット時代に沈没していくだろう。

右の男は狂った悪役の天才、故・成田三樹夫に似ている。
一人の独裁者が一つの国家を暗黒社会に染め上げていく。そして、いったん独裁者のための権力機構が出来上がってしまうと暗黒社会が自ら浄化・健全化するのは難しい。北朝鮮金王朝を倒すための国民運動は起こらないし、民衆が蜂起することもない。
暗黒共産主義を崩壊させた東欧革命は凄いことである。ソ連の改革開放を断行し東欧革命を黙認したゴルバチョフは当時クレムリン内で守旧派に毒を盛られそうになったり撃たれそうになったり子供をさらわれそうにもなっただろう。独裁を引き継いだ者が自ら独裁を止めることは想像を絶する難しさであったはずだ。ゴルバチョフはなぜ回顧録を書かないのだろう。なぜ、映画「ニクソン」や「JFK」があるのに「ゴルバチョフ」は作られないのだろう。

プラハ・ワルシャワへ 2



プラハ旧市街広場にあるクリスタルガラス有名店「エルペット」で二晩続けて買い物をした。広い店内には店員の姉さんが10メートルおきに立っているがこちらから声をかけなければ見向きもしない。ゆっくりと品定めができて実に良い。ボヘミアガラスは透明度の高さと優れた彫りとカット技術によりかつてはハプスブルグ家の愛用品となりベネチアガラスと並び世界の一級品に位置付けられた。二晩目は店長の金髪おばさんが笑顔だった。一晩目は英語だったが二晩目の会計時にはほとんど日本語になり驚いた。二晩行かないと気を許してくれないのだ。


以下は戦利品である。鉛が入ったガラスなので重くて多くは運べない。俺はウイスキーをこういう瓶に入れて、洋画に出てくるシーンのように飲んでみたかった。いま毎晩やっている。フェイクの果物は日本製である。

地下鉄のエスカレーターのポスターである。やはりうれしい気分となる。

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ボヘミアの歴代王の居城「プラハ城」のエリアにある聖イジ―教会である。920年頃建てられ1142年に改修されたものが現存する。毎晩のようにやっている室内楽コンサートに二回出かけたが、鮮烈さと柔らかさを兼ね備えた音響がすばらしかった。中央の太ったおばさんがコンサートマスターであり、モーツァルト、ビバルディのなじみ深い楽曲の数々をやってくれた。ヨーロッパには名もない名プレイヤーがごろごろいることを実感した。俺は二晩とも一枚4000円の「VIP席」を購入したが、舞台真正面の「VIP」席エリアに座っているのは俺一人であり失敗した。後ろの席を振り返ると4列の空席を隔てて80人ほどのやや年配のヨーロッパ人たち全員と目が合うのである。笑いかけたり小さく手を振る人もいて、俺も手を振り返したりしたが中には憮然と睨みつけるハゲもいた。ハゲは俺が全員に手を振ったのだと思ったのだろう。冷たい汗が出る瞬間であるが、俺はもしかしたら幸せ者なのかもしれない、と感じる瞬間でもある。



プラハは緑滴る街である。しかし、そのためか俺はずっと花粉症だった。去年同じころのブダペストでも花粉症だった。点鼻薬を持って行ったのだが行きの飛行機の中で空であることに気が付いた。プラハの街の薬屋で「アイハヴノーズアレジー。アイウォントノーズメディシン。」と言ってみたが店員の姉さんは茫然としていた。自力でそれらしきものを見つけ鼻へスプレーしてみたがなお酷くなり大変だった。実は水虫薬だったのではないだろうか。

ヴルタヴァ川西岸をロープウェイで登ったなだらかな丘にペトシーン公園が広がっている。ほとんど人はいない。

プラハ城内の広場でこういうことをしているのは韓国人である。中国人たちは10人以上の団体でドカドカ踏み荒す。韓国人たちはカップルや3〜4人のグループが多く、旅慣れた風を気取って自意識が強そうなノースマイルのツラで歩いている。一人で歩いている奴はほぼいない。街並みの中で自分たちの姿形がどう映っているかをわかっていない。日本人はお人好し顔でどこか遠慮気味に道の端を歩いていた。これも残念なことである。


プラハには人形劇場がいくつもあるそうだ。16世紀から19世紀のハプスブルグ支配下チェコ語が禁止される中、人形劇ではチェコ語が許されていたのだという。プラハには人形屋がいたるところにある。下写真の中に俺がいる。

ノヴィースミーホフというデパートのフードコートで「寿司」を中心とした日本食コーナーを見つけた。

焼肉は靴の底のように固く、味付けは中途半端に中華が混じっていてびっくりするほど不味かった。やっているのは調理場も店員も全て中国人だった。なぜチェコ人ではなくわざわざ中国人を雇うのだろうか。それは顔が日本人とほぼ同じでありプラハにも中国移民が多いからである。中国人はまったくやる気なく「和食」を作るのだろう。だから特に不味いのである。それでも周辺のインド料理コーナーや中華料理コーナーには全く客がいないのにこのニセ日本食コーナーには続々と客がやってきていた。こんなものは日本食ではないよー、と叫びたいほど残念だった。「華屋与兵衛」クラスでよいからまともと言える和食レストランができれば大繁盛となるだろう。


新市街中心部で見つけたロシアの民芸品「マトリョーシカ」が牙を剥くポスターは強烈だった。邪悪はだいたい無邪気を装ったり微笑みを浮かべたりしてやってくる。そして徐々に暗黒の牙を剥いていく。

共産主義時代の小学校の様子である。次回は極めて印象深かったこの「共産主義博物館」の話から始めたい。

俺は邪悪なマトリョーシカの楊枝さしを買って帰り眺めている。

プラハ・ワルシャワへ 1


プラハの夜は5月でも体感5度以下に冷え込む。ワルシャワはさらに寒くて昼間でも体感3度だった。大袈裟に言っているわけではない。この冬はプラハワルシャワも最低気温−20度以下の日が続いたらしい。しかし、この寒さが中東欧の旅情に欠かせない要素なのだろう。プラハが台湾みたいに蒸し暑かったら気分は台無しになるだろう。と、どうでもよい入りになったが、いまプラハからミュンヘンへ向かうルフトハンザ機内である。ミュンヘンで4時間近くも待って、それから11時間かけて羽田へ帰る。

世界地図好きの子供の頃、なぜか憧れを抱いた地名・・文化や歴史や今の世界というものを少しは解り出してからさらに絞られていった場所へ向かう旅をこの連休も実行することができた。

プラハ、ヴルタヴァ川である。タクシーの運転手に「これがモルダウ川だな?」と言ったら「モルダウはドイツ語だ。チェコ語ではヴルタヴァだ。」と言っていた。
プラハに4泊し1日だけ早朝出発の日帰りでワルシャワへ行った。ワルシャワは想像以上にどこか陰鬱で空気が重たい街だった。わずか11時間歩いただけでこんな言い方もないものだが、だからと言って嫌いだとか印象が悪いというような浅いことを言っているわけではない。俺の言うことの多くは浅いがこれは違う。陰鬱や重たい空気には1000年にもわたる過酷な歴史が存在するのであり、それでも今は前に向かっている都市の表情や磁力を体感することに強い興味があるのだ。
ワルシャワの話は別の回にするとして、旅の中心だったプラハに話を戻したい。

プラハは10世紀のロマネスク様式から20世紀のアールヌーヴォーまで、無数の歴史的建造物で出来上がった、街全体が建築博物館と言われる世界遺産都市である。13世紀までのボヘミア王国の都であり14世紀には神聖ローマ帝国の首都となり栄華を極めたという。その後はドイツ勢力やハプスブルグ帝国に蹂躙され17世紀からの200年もにわたりチェコ語を禁じられてドイツ語を強制された。第二次大戦ではナチスドイツに占領され、プラハユダヤ人街のほとんどの人々は強制収容所に送られた。戦後はソ連の衛星国として共産主義の暗黒時代に入り1969年の民主化運動「プラハの春」はソ連を始めとするワルシャワ条約機構軍の戦車に踏み潰された。そして、まだ記憶に新しい1989年の東欧革命によりおよそ400年にわたる抑圧の歴史から解放されてまだ28年しかたっていない。


カフカの生まれた家はつまらないカフェになっていた。20代の頃、「変身」「城」を読んだ覚えがある。「城」は俺なりに理解できた感じだが、ある日目覚めたら無数の足が生えた虫になっていた「変身」はわからなかった。たぶんいま読んでもわからないだろう。きっと、ユダヤの2000年にわたる苦難の歴史や20世紀初頭のチェコの状態などを知らなければ理解はできないのではないだろうか。
俺が4泊したホテルは驚くべきことに1406年建造の建物だった。プラハでは歴史遺産ではないそこらのカフェとか酒屋とか土産物屋とかの普通の建物が500年経っていたりする。ホテルは18室しかない小さな4階建でエレベーターがなかった。俺が押さえたスーペリアツインは運悪く4階であり登りが本当に辛かった。足立区あたりには昭和40年代にぼこぼこ建てられた共産主義住宅みたいなコンクリートの箱のようなエレベーターなどあるはずもないアパートに80代の老人たちがあてなく住んでいる。5階や6階に上ったり降りたりできるのだろうか。プラハで足立区など考えたくないが人間の想像は止められない。


ホテルにロビーなどはなく、レセプションには昼間は目が顔の半分くらいを占めているお姉さん(おばさん?)、夜から朝はハンサムな髭、ポニーテールのブラピ似のお兄さんが番をしていた。着いた翌日の朝、雨だったのでブラピに「トゥデイのウエザーはビカムベターかい?」と聞くと「ラジオデハアフタヌーンハサニートトークシテイタ。シカシソウトハカギラナイ。オレニハドチラトモイエナイ。」と言っていた。日本のホテルなら怒鳴り付けるところであるが、奴には悪気がない。スマイルの面でベストな説明をしたつもりなのである。「トゥモローのアーリーモーニングのエアで俺はワルシャワへゴーしナイトにリターンヒアする。モーニングの5オクロックにエアポートまで行くタクシーをコールしてくれ」と言うと「ワンデーデワルシャワハキイタコトガナイ。ホンキナノ?ワカッタ。タクシータブンダイジョウブダ。バットサムシングバッドナマターガハップンスルケースモアルカラプロミスハキャントダ」と言っていた。
もちろん、これがチェコ人気質かどうかはわからない。

やって来た運転手は小錦を小振りな白人にしたような奴で明るい奴だった。
「ユーはチェコでボーンしたのか?」「イェスだ。ユーはジャパニーズなんだよな?」「イェスだ。まさかルックライクチャイニーズと言いたいわけじゃないよな?」「100%チャイニーズには見えない。チャイニーズはアイがシンでスモールだ。だいたいチャイニーズはタクシーにゲットオンしない。日本人は素晴らしい。マナーがいい旅行者ばかりだ。」「チャイニーズは酷いだろ?」「チャイニーズはアチチュードがバッドだし話しかけても知らないフェイスをする。まったくイングリッシュがダメだしそれがどうしたという態度だ。大勢で固まってワーワー騒ぐし唾も吐く。日本人はジェントルだしノートラブルだ。ジャパニーズはクレバーなんだ。」「オールモストジャパニーズはチャイニーズとコリアンがディスライクだ。だから奴らもジャパニーズをヘイトする。奴らはバッドマナーでセルフィッシュでノイジーでストレンジカラーのウエアだ。ダーティーなフェイスのやつも多い。ワールドはフルオブスモールアイズにビカムした。奴らはインクリーズがエクストラだ。エニホエアで生き抜くアビリティーがストロングだ。」
ここで運転手は「ウエイトウエイト・・」と苦しそうに言って車を停車させた。涙を流しながらしゃっくりのような大笑いを続け運転できなくなったのである。その間、俺の肩を叩き続けて奇声をあげていた。中国人ネタが爆笑となるのは世界共通なのである。
「ナイトはホワットタイムにリターンするんだ?ピックアップに来るぜ。料金はハーフプライスでいい。」
運転手の車は自家用車の四駆である。給料が10万で家賃が10万なので2つ仕事をしている、プラハでは1つしか仕事をしないのは医者ぐらいだ、俺は毎日5時間しか寝ていない、と言っていた。ロンドンやパリへは行かないのか?と言うと、ロンドンには4年いたがマムが歳をとり心配で帰ってきた、可愛い子供も二人いるんだ、と言っていた。

プラハの春音楽祭」のメイン会場となるスメタナホールが入り、ミュシャのデザインも施された華麗なるアールヌーボー建築物、「市民会館」のレストラン・プルゼニュスカーでビールを飲み名物のタルタルステーキをゆったり食べていたのだが・・・

例の人々が30人以上の団体で乱入し、ミャウミャウパウパウの大声が響き渡ることとなった。ミュシャアールヌーボーも一気に色褪せさせる彼らが発散する毒素はなんなのだろう。
俺の会社の中国人社員が俺のブログを発見し「よくわかります。恥ずかしいです。言わないで思うより言ってくれる方がいいんです。」と言っていた。こいつは日本の文化が好きで日本に留学しそのまま働いている。こういうものがわかった奴もいるのである。奴は働き者で会社に貢献してくれるが「僕は中国ではあまり漢民族には見られません。ウイグルっぽいと言われます。」と二回俺に言ったので「何言ってんだおめー。全然ウイグルじゃねえよ。お前は南方混じりの完全な漢民族のツラだ」と言うと残念そうな苦笑いを浮かべていた。悪い奴ではない。

カフカのポスターを街のあちこちで見かけた。カフカミュシャスメタナドボルザークも専門の博物館がある。もちろんチェコの民族的尊厳のために戦い抜いた1000年の間の偉大な王や宗教家の多数の巨像が街を見守っている。1000年以上に渡る建築物の街は、奇跡ではなく単なる結果でもない。歴史的偉人・遺産に対するリスペクトが基軸となって今に至る街なのだ。
東京にも本来は、日本史博物館や近代文学史博物館や日本美術工芸博物館があって然るべきだろう。


日本一の桜


4月24日夕刻、日本一の桜名所と言われる青森・弘前公園を地元の会社の65歳なのにリーゼント頭の社長さんに案内されて訪れた。


弘前城や内堀外堀の水面や津軽富士を背景に2600本がこの日満開となっていたのである。「満開をこんな快晴の夕方に観るのは今日だけですよ。明日から雨なので。黒坂さん、計ったように来たねえ。」とも言われながら1時間かけて弘前公園を一周した。正直に言って、「桜がたくさん咲いているところ」くらいの認識でやって来たのだが、それはとんでもない誤りであった。やはり世間というものは舐めてはいけないのである。弘前の桜は「桜守」(さくらもり)という樹木医が、同じバラ科のリンゴの木の栽培技術を取り入れて一年中剪定やら何やらの世話をしているからこそ特別な美しさを持っているそうなのである。

弘前の桜は花にボリュームがあり色彩が鮮烈である。また、剪定により枝を横に広げて低木とし目の高さ近くに圧倒的な花々が迫るのである。俺はバラを育てているので日頃の管理で花の色や形が際立つことを少しは知っている。


その夜、男4人で上がった弘前の料理屋の座敷には盛り上げ役として地元ではやり手で有名らしい五月みどりが小さくなって太ったような水商売のおばさんが用意されていた。酒が進みくだらない話で笑い合いながら俺は「ところでさ。ママは社長の同級生かなんかなの?」と言ってしまったのである。ママの目が吊り上がるのを見て俺は「そんなわけねえよなあー。会話がなんかそんな感じだからさあー。」と言ったが遅かった。その後、車で青森へ移動しホテル近くのバーに寄った。ここも遊び人のリーゼント社長の馴染みであり、ママは50代半ばと思われる地元オヤジのファンが多いらしい篠ひろ子似の美人だった。カラオケをやりながら俺は「ママはさー、やっぱり昔はモデルとかやってたんじゃないの?」とサービス精神のつもりで言ったのだが「昔、が余計だよ!」と怒られることになった。勿論おばさん達はいずれも本気で怒ったわけではなくその後それにより会話はより親密に盛り上がったわけではあるが、俺にはわからないのである。なぜ女はそこまで自分の年齢を気にかけているのだろうか。50だって60だって70だっていいじゃないか。俺は今後も水商売のおばさん達に悪気なく正直に「孫いるの?」などと言って怒られ続けるだろう。

キレる初老人


田園都市線鷺沼駅周辺

奈良東大寺
またもや桜の頃となった。桜は確実に年月が過ぎ去っていくこと、或いは人生の残り時間というものを突きつける。7年前にNHK放送文化研究所が行なったWEBアンケートによると、「初老」と呼ぶに相応しい年齢は、男は55.5歳、女は58.4歳なのだそうだ。俺はそれを3.5年越えた完全な初老人である。一昨年に母を亡くし、親父は25年前に亡くなっている。最近自覚するのだが、初老人に両親がいなくなった時、俺に限った話かもしれないが、とにかく歯止めが効かなくなり街中でも遠慮というものがなくなり誰彼となくハッキリとものを言うようになり時にキレまくるようになる。

東大寺
1月に上越新幹線で態度が凶悪だった半ヤクザ風と大げんかになった話を書いたが、3月にも金沢からの北陸新幹線内でやった。金沢は欧米人の観光客が多いのだが、乗り合わせた車両にも教養がありそうな欧米人が10人ほどは静かに乗車していた。そして、車両の中ほどに問題のそいつらは席を向かい合わせにして4人で朝からビールを飲み続けていた。40半ばくらいの5流企業のサラリーマン風の奴らだったが、長野駅を過ぎる頃にはまるで花見の宴会のような騒ぎとなっていったのである。俺は通路を歩いて行き「お話中すみませんがちょっとボリューム落としてくれますか」と言い、15分ほどは静かになったのだが、再び軽井沢あたりから同僚の失敗を喜ぶ話や他人の女房を笑い者にする話や生意気な若手をいじめてやった話や・・実にばかそうなくだらない話をべらんめえ調で大声でやりあい大笑いを続けたのである。周囲の欧米人観光客はみんなやや厳しい表情で黙って座っていた。俺は、高崎を過ぎたあたりで再び奴らに接近し「うるせえんだてめーら!いい加減にしろ馬鹿野郎!お前ら大宮で降りろコラ!」と怒鳴りつけると一番騒いでいたイガグリ頭が反抗的な目を俺に向けて立ち上がって何か言おうとした時、すぐ後ろにいた45くらいのともに180㎝越えのいい匂いがする巨大な美男美女欧米人夫婦?がとっさに止めに入りそのあと馬鹿者どもはおとなしくなった。俺は外人男と握手をし、「クレイジーノイジーフールズ・・・アイフィールアシェイムドアズジャパニーズ. アイムソーリー」(正しい表現かどうかはわからん)と周囲の外人たちに言ったが、みんな静かに微笑み頷いてくれた。5流サラリーマンどもはバカなので単語の意味がわからないようだった。

それと前後して、都内のある高級住宅地の駅前ロータリーで一時停止違反で捕まった。3人でやってきたお周りに「標識を目に入るとこに出せや。お前らはこうやって人を引っ掛けて喜んでいるんだろう。だからお前らは嫌われるんだ馬鹿野郎!!」と言うと35歳ぐらいの若造お周りが「あなたの運転がなってないんですよ」などと言い俺は「小僧、おめえ今なんて言った。運転がなってないだとこの野郎!! 俺はてめーが産まれる前から運転してるんだ!! 今すぐ謝れ小僧!」と言うと小僧は「すみませんでした」と言っていた。

それと前後して、スマホの電池がダメになり鷺沼のAuショップで電池の取り寄せを頼み1週後の夜8時に受け取りに行くと40分待ちの掲示が出ていた。店の30歳ぐらいの男に「頼んだ電池とりにきただけなんだけど40分も待つの?」と言うと「はいそうです。ルールですから。」と、いかにも俺が非常識のように言い放ったので「お前生意気な言い方してねえで棚から電池とって今すぐ渡せや。こんな接客はありえねえんだ、馬鹿野郎!!」と言うとすぐに電池が渡された。俺は「ふざけんじゃねーぞ」と言って店を出たのである。

こんなくだらない話を今年70になる兄貴に話すと「お前そのうち刺されるぞ。」と言っていた。

大阪 飛田新地に至る


仕事で大阪に2泊した。帰る日の朝、昼まで時間があったので梅田から御堂筋線に乗車して以前より見てみたかった場所へと向かった。俺はこれまで新大久保のイスラム横丁とか墨田の鳩の街とか山谷とか横浜寿町とか廃墟に向かう足立の団地群とか・・・東京の裏側を訪ね歩いてきたが、大阪の南側の低地に広がる最後の遊郭街「飛田新地」をぜひ目撃してみたかったのである。

地下鉄は心斎橋を過ぎ道頓堀川の下を通り抜け天王寺の手前の駅、動物園前駅に至る。駅から地上へ出るとすぐにその異界への入り口が口を開けている。

一番街は新地へと続く湿った助走路である。踏み入れた途端、40〜50年前に時間が逆行する。アーケードで外界から隔絶し、快晴の日にも薄暗くクレゾール系の消毒薬の匂いが立ち込める商店街の午前11時。ほとんどはシャッターが降りているが所々に八百屋や質屋や古道具屋やモーニングサービス中の喫茶店が開いていたりもする。酒焼けした60代から70代前半のいかにも西成地区っぽい日雇い風のおっさんどもが自転車で通り過ぎていく。多くはないが、ほとんど酒で廃人となってしまったように見える浮浪者がフラフラしてもいる。わずかに見かける20代男は狐目をしている。しかし、間違いなく場違いであろう俺には誰一人目もくれない。そして笑いはどこにもなく音もない。
こんな完全にタイムスリップした、延々と続くアーケード街を俺は見たことがなかった。

15分ほど歩きアーケードを抜け出ると…。



飛田新地では写真を撮ってはいけない。撮ろうとすると罵声を浴びたり脅かされたりすると聞いていた。だからまだ多くは開店前の時間に行って撮るのがよいのである。昼前でも10軒に1軒は開いていて「おにーさん、おにーさん、いい娘いるから寄っといで・・・」という遣りて婆のだみ声を聞くことができた。
集結している店はすべて「料亭」である。料亭に踏み入れた客は、そこに居合わせた中居さんと勝手に自由恋愛に堕ちるのである。
ここに「料亭」を開くにあたっては、部屋の配置やそれぞれの広さなど、事前に警察の細部にわたるチェックを受けるのだという。料亭の体をなしていなければならないということなのだろう。この街全体の秩序を取り仕切っているのは「料理組合」という組織らしい。あの橋下徹はこの料理組合の顧問弁護士をやっていたのだという。

飛田新地は大正5年ごろ出来上がった。明治の半ばから難波にあった遊郭街が大火で壊滅しこの低地に移された。その後昭和33年(俺の生まれ年)に売春防止法が施行され遊郭街は料亭街に名を変えた。もちろん行われていることは大正の昔と変わらない。
ネット記事に、ある料亭経営者のインタビューが乗っていた。今、この街で仕事をしている女性のほとんどは悲しい運命など背負っているわけではなく、ぜいたくな暮らしをしたいだけというケースがほとんどなのだという。だから他の風俗からの転身も多いが、もとは一般の大学生や役所勤めや普通の会社事務員なのだそうだ。
それにしてもこのような街が今なお白昼堂々と成り立っているのは不思議と言えば不思議である。いや不思議ではないと言えば不思議ではない…。
物事には必ず表と裏があるわけだが、この街のすぐ隣には日本一の超高層ビルあべのハルカスが威容を誇り、真新しいタワーマンションが林立して幸せそうな若い家族ずれが行きかっている。
人の世の光と闇の隠微なコントラストに俺は惹かれるのだが、近頃は何もかも、一見清潔で健康そうで優しそうで正論ぽくて前向きっぽい・・・浅く薄っぺらな景観や表現や主張に世の中は覆いつくされていくようである。

上越新幹線で大ゲンカとなる。

朝8時過ぎの上越新幹線に乗って新潟へ向かった。前日から「数年ぶりの大寒波到来・・日本海側は大雪・・不要不急の外出は控えてください・・」などとテレビでやっていたので、「やばい日にやばいところへ行くんだな」と思いながらユニクロヒートテックのタイツまで不恰好に装着し出かけたのである。

群馬側からの長いトンネルを抜けると雪国となったが、曇天ながらまったく雪は降っていない。

米どころの南魚沼あたりから青空がのぞき始め、新潟に降りると東京の朝よりも風がない分、寒さを感じなかった。

最近テレビの天気予報がどんどん大げさになってきているような気がする。もちろん集中的に豪雪となったところもあるのだろうが、日本海側全般的なニュアンスで「不要不急の外出は控えてください」は言い過ぎだろう。大げさなうえに事細かに脅威を煽るいろんな解説をしたりして暗い気分にさせる天気予報が多い。昨年9月には、向こう10日間がすべて雨の予報になっていて気が滅入ったが、半分は雨ではなかった。台風が強大化したり竜巻やゲリラ豪雨などが増えたことや、被害が出たときに「なんで予報しないんだ!」という怒りがネットにより蔓延する時代になったので悪いほう悪いほうへと伝えておこうという逃げもあるのかもしれない。さらには気象予報士たちが出番を確保したり広げたりするために自己顕示しようとしていてそれに付き合わされているような気もする。これらは経済活動にマイナスとなる社会悪とも言えるだろう。

……、前置きが長くなったが、新年早々、大柄で態度がでかい50代後半の人相の悪い男と帰りの上越新幹線で大ゲンカとなったのである。
俺は窓側の席で上毛高原あたりから寝込んでいた。そいつは高崎から乗ってきた。俺の前の席に座った途端、シートの背もたれをマックス近くまで乱暴に倒し俺の膝が圧迫されてつっかえると舌打ちをしてさらにぐいぐい押し倒したのである。車両はすいていたので俺も一発舌打ちを聞かせてから通路を挟んだシートに移動したが、そいつは俺を睨んで威嚇を続けたのである。
「何見てんだこの野郎!てめーみたいに倒してるやつはいねえんだこら!文句言いてえのはこっちのほうなんだよう!」
「なんだとこの野郎!俺にケンカ売る気か!くそやろう!生意気なんだてめーは!」
「馬鹿野郎!生意気というのは目上の人間が使う言葉だ!てめーがほざくセリフじゃねえんだこら!!」
「おめーふざけんじゃねーぞ!ただじゃすまねーぞ!!くそじじいがっ!!」
「おめーのほうがじじいだろうがっ!よく見て言えや!シート倒してよろしいですか、とか言ってみろや!」
5分ほど怒鳴りあっている間中、他の乗客は下を向いていた。
その後、お互いに見ないようにして30分ほどが経過し、大宮を過ぎたあたりで俺は8列くらい後ろに座っていた会社の同行者の隣に移動して雑談した。彼は俺より2つ年下で育ちの良い上品な顔立ちのお公家さん的細身男である。東京に差し掛かり俺は彼と並んでコートを着たり荷物を棚から降ろしたりし始めたが、10メートル前で野郎がこっちを見て睨みつけていた。さっきは30分も黙りあったはずなのに再び凶暴な眼光で威嚇し何やらほざき散らしていた。
「うるせーぞばか!」
を浴びせてホームへ降りると野郎は待っていて50センチを切った至近距離での怒鳴りあいとなった。
野郎の手が俺にかかる直前にお公家が身を挺して間に割って入り掴み合いを全力で防いでくれた。その後俺はホームの喫煙ルームでたばこを吸っていたが、野郎はまた舞い戻ってきてお公家の必死の説得にあい、去って行った。
もし取っ組み合いになりまともにやれば俺は180センチ100キロの半やくざ風男にぼこぼこにされていただろう。
俺は勇気を振り絞って防いでくれた細身公家に感謝すべきはもちろんなのであるが、なぜ高崎から大宮まで通路を挟んで隣り合わせで30分も我慢し黙りあっていたのに東京手前で急に力を盛り返して再びケンカを売ってきたのか・・・・・。
くだらん話ですみません。

俺は今年59になる。