突然の旅人

大した話でもない黒坂修のアホ旅日記

プラハ・ワルシャワへ 2



プラハ旧市街広場にあるクリスタルガラス有名店「エルペット」で二晩続けて買い物をした。広い店内には店員の姉さんが10メートルおきに立っているがこちらから声をかけなければ見向きもしない。ゆっくりと品定めができて実に良い。ボヘミアガラスは透明度の高さと優れた彫りとカット技術によりかつてはハプスブルグ家の愛用品となりベネチアガラスと並び世界の一級品に位置付けられた。二晩目は店長の金髪おばさんが笑顔だった。一晩目は英語だったが二晩目の会計時にはほとんど日本語になり驚いた。二晩行かないと気を許してくれないのだ。


以下は戦利品である。鉛が入ったガラスなので重くて多くは運べない。俺はウイスキーをこういう瓶に入れて、洋画に出てくるシーンのように飲んでみたかった。いま毎晩やっている。フェイクの果物は日本製である。

地下鉄のエスカレーターのポスターである。やはりうれしい気分となる。

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ボヘミアの歴代王の居城「プラハ城」のエリアにある聖イジ―教会である。920年頃建てられ1142年に改修されたものが現存する。毎晩のようにやっている室内楽コンサートに二回出かけたが、鮮烈さと柔らかさを兼ね備えた音響がすばらしかった。中央の太ったおばさんがコンサートマスターであり、モーツァルト、ビバルディのなじみ深い楽曲の数々をやってくれた。ヨーロッパには名もない名プレイヤーがごろごろいることを実感した。俺は二晩とも一枚4000円の「VIP席」を購入したが、舞台真正面の「VIP」席エリアに座っているのは俺一人であり失敗した。後ろの席を振り返ると4列の空席を隔てて80人ほどのやや年配のヨーロッパ人たち全員と目が合うのである。笑いかけたり小さく手を振る人もいて、俺も手を振り返したりしたが中には憮然と睨みつけるハゲもいた。ハゲは俺が全員に手を振ったのだと思ったのだろう。冷たい汗が出る瞬間であるが、俺はもしかしたら幸せ者なのかもしれない、と感じる瞬間でもある。



プラハは緑滴る街である。しかし、そのためか俺はずっと花粉症だった。去年同じころのブダペストでも花粉症だった。点鼻薬を持って行ったのだが行きの飛行機の中で空であることに気が付いた。プラハの街の薬屋で「アイハヴノーズアレジー。アイウォントノーズメディシン。」と言ってみたが店員の姉さんは茫然としていた。自力でそれらしきものを見つけ鼻へスプレーしてみたがなお酷くなり大変だった。実は水虫薬だったのではないだろうか。

ヴルタヴァ川西岸をロープウェイで登ったなだらかな丘にペトシーン公園が広がっている。ほとんど人はいない。

プラハ城内の広場でこういうことをしているのは韓国人である。中国人たちは10人以上の団体でドカドカ踏み荒す。韓国人たちはカップルや3〜4人のグループが多く、旅慣れた風を気取って自意識が強そうなノースマイルのツラで歩いている。一人で歩いている奴はほぼいない。街並みの中で自分たちの姿形がどう映っているかをわかっていない。日本人はお人好し顔でどこか遠慮気味に道の端を歩いていた。これも残念なことである。


プラハには人形劇場がいくつもあるそうだ。16世紀から19世紀のハプスブルグ支配下チェコ語が禁止される中、人形劇ではチェコ語が許されていたのだという。プラハには人形屋がいたるところにある。下写真の中に俺がいる。

ノヴィースミーホフというデパートのフードコートで「寿司」を中心とした日本食コーナーを見つけた。

焼肉は靴の底のように固く、味付けは中途半端に中華が混じっていてびっくりするほど不味かった。やっているのは調理場も店員も全て中国人だった。なぜチェコ人ではなくわざわざ中国人を雇うのだろうか。それは顔が日本人とほぼ同じでありプラハにも中国移民が多いからである。中国人はまったくやる気なく「和食」を作るのだろう。だから特に不味いのである。それでも周辺のインド料理コーナーや中華料理コーナーには全く客がいないのにこのニセ日本食コーナーには続々と客がやってきていた。こんなものは日本食ではないよー、と叫びたいほど残念だった。「華屋与兵衛」クラスでよいからまともと言える和食レストランができれば大繁盛となるだろう。


新市街中心部で見つけたロシアの民芸品「マトリョーシカ」が牙を剥くポスターは強烈だった。邪悪はだいたい無邪気を装ったり微笑みを浮かべたりしてやってくる。そして徐々に暗黒の牙を剥いていく。

共産主義時代の小学校の様子である。次回は極めて印象深かったこの「共産主義博物館」の話から始めたい。

俺は邪悪なマトリョーシカの楊枝さしを買って帰り眺めている。