突然の旅人

大した話でもない黒坂修のアホ旅日記

歳末と商店街

昔懐かしい景観を保ち続けている商店街が好きなのである。
年末に差し掛かると浅草に足が向く。浅草には先週出かけて葵丸進で天麩羅を食ってから合羽橋で小物調理道具を買った。
そして今週は「おばあちゃんの原宿」と言われる巣鴨地蔵通り商店街へ初めてやってきたのである。

地蔵通りは想像を超えた感動ものの異空間だった。日本中の商店街がシャッター通り化する中でこういうところもあるのだ。


こんな店が会社の近くにあれば俺は毎日昼飯を食うだろう。あらゆる定食もの、丼もの、麺類、中華、甘いものを取り揃えたこんな店はもはや文化財ものである。
50年も前、俺が生まれ育った荻窪界隈には「食堂」と呼ばれたこんな店もあって、思い出してみれば中野にかけての中央線沿線は丸ごと地蔵通りみたいな下町だった。小田急や東急よりもはるかに古くから拓けた中央線沿線には明治の昔から上野、神田方面からの下町の風が流れ込み商店街が形成されていた。(荻窪駅明治24年開業)
そして、俺がガキの頃の商店街にはあったのだが今はない店、雰囲気、人情…その失われたほとんどの要素を並べてくれているのが巣鴨地蔵通り商店街なのだろう。
地蔵通りは俺の気分をかなり上げてくれた。

地蔵通りには婆さんたちが日頃着るものを扱う店が多い。こういうものをどこで買ってしまったのだろうかと思えるものの全てが数百円から2000円くらいまでで揃っている。

「どこで買ったのか?」・・・ここに地蔵通りの人気の訳があるのだろう。洋品店の他には、大福など餅菓子、豆屋、煎餅屋、漬物、漢方薬、海苔・お茶、佃煮、仏具、袋物・カバン、寝具、和菓子・甘味処、雑貨・アクセサリー、練り物・・・・・・
この商店街にはデパートやスーパーやショッピングセンターにはないものが集められているのである。一部あったとしても、ここにはまとまって集結しているのだ。


気分が上がった俺はおよそ1時間半の間に立ち食いを続けた。揚げたてのタコ入りさつま揚げ、焼きたてのシナモンパン、塩大福、みたらし団子、抹茶ソフトクリーム・・・どれもうまかったし、どの店のおばさんも気さくで明るかった。立ち寄った渋い喫茶店「貴族」は、外を歩いているのと同じような婆さんがカウンター内にいて、太った50過ぎの娘と親戚らしい姉ちゃんが愛想よく切り盛りしていた。
実に癒される商店街である。
今度は柴又と戸越銀座に行くことにする。

人の声がない街


俺は、寂しく悲しげな街や、崩れそうにすすけた路地裏を通り過ぎるのが大好きなのである。


俺は福井にある会社の社外取締役となり3ヶ月に1回は福井に行く。そうでなければたぶん一生行かなかっただろう。
以前、福井のクラブのロシア人ホステス、ニーナについて書いたblogはかなりの好評をいただいた。福井には日本では価値ゼロの中古車をロシアに売っぱらう会社があり、だから?ロシア人が多いとも聞いた。
今回、鉛色の雲が垂れ込める初冬の福井の夕暮れを一時間さまよってみたのである。




福井駅から歩いて1分なのにこんな懐かしい店が連なる。「おしゃれの婦人靴」という店頭看板や「ロンジン」を全面に出した時計屋や1960年代の外人マネキンのパーマ屋はおそらく昭和30年代からやっているはずである。がらくたを集めたにしか見えない鞄屋を含めて福井駅前の目抜き通りなのである。

そんな福井駅のとなりにこの春、市が金を出して大きなショップス&レストランズビルがオープンしたがまるで人が入っていない。わざわざ福井のショップス&レストランズに誰が来ると思ったのだろうか。
話はやや飛躍するが、国が税金遣って主導する「クールジャパン」事業は悉く失敗を続けているらしい。その一方で、あるロンドンのファッションメーカーが欧米で急拡大しているという。

(雑誌Wedge12月号より拝借)
ブランド名は「superdry 極度乾燥(しなさい)」・・・。既に46ヵ国に515店舗を持つという。Tシャツから何からすべての服に「superdry 極度乾燥(しなさい)」の意味不明ロゴが刻まれいて、さらには「会員証な」などという謎の日本語がデザインされているらしい。安物ではなく質のよい服地も評判とのことである。
テメーでテメーを「クール」などと言って出てくる発想はろくでもないものでしかないのだろう。海外から面白いと思われる日本や、みんなが求めている福井とは、役人には発想できない何かなのである。
福井に昭和30年代みたいな巨大レトロ街が出現し床屋も肉屋も映画館も不動産屋もなぜか太ったロシア人女がやっている・・・
日本中から客がやって来るのではないだろうか・・・
いや、わからない。

・・・・・・・・。

再びケツが痛い話

今日、俺はららぽーと横浜クリニックでの手術を終えてドーナツ型クッションに座っている。俺は3年前の11月にも同じ病院で同じ手術を受け、その経緯を書いた2013年12月1日付の記事は読者からかなりのご好評をいただき、今でも多くの方にご愛読いただいているようである。俺に悪辣な対応を行なった新横浜の城クリニックは、ネット検索すると俺の記事が検索トップページにリストされているようで、ダメージは小さくなかっただろう。人をバカにした偉そうな医者は少しは反省し改めただろうか。

今年の春あたりから3年前に切った左ケツ周辺部が小さく腫れたりし始め、これはおかしいぞ、とは思っていたが10月に入りそれは突然巨大化したのである。
あえて詳述させていただくが、3年前には左ケツの穴から(すいません…)4センチくらい離れた皮下にある巨大な腫れ物を作る芯のようなやつを皮膚表面6センチ✖3センチ、深さ2.5センチにわたって抉り取ったのである。今回はその半分程度の規模であったらしい。前回は術後の痛みは相当なものだったが今回は今のところそれほどでもない。しかし、今回はより穴に近い部分(あと1センチで穴)であることから、一つ間違えば大変なことになりかねないぞ…とやや緊張もしていた。ららぽーと横浜クリニックの若き名医である院長に「あっちにも近いし危なさはないですか?」と言うと、いつものように「えっ?あーまったく心配ないですねー」と言っていた。全ての患者のすべての手術を全て自分でやるこの院長には感情の起伏がなくいつも穏やかでそこが俺は好きなのである。

それにしても、先月10月に巨大化したときの痛みはひどかった。左ケツの腫れは直径10センチにも達し、あっという間に皮下に管みたいなやつが発生して伸びつつあり、痛くて座れないし眠れないし熱も出て、歯を食いしばりびっこを引きずりながらららぽーと横浜クリニックに辿り着いたのである。
それをみた院長は「あー黒坂さん、また来ちゃいましたねー。これはひどい腫れだー。今日は応急処置として切って膿を出しますよー。麻酔注射入れますからちょっと痛いですよー」
風が吹いても痛い腫れの真ん中にぶっとい麻酔注射の針を入れるのである。3人の若い看護婦が腫れたケツを丸出しにした俺を押さえつけた。その瞬間の俺の呻き声は待合室にも轟いたはずである。院長は腫れをつねったり絞ったりして膿を出していくのだが麻酔が効いているのかと疑うばかりの激痛が続く間、看護婦は「もう少しですよ…がんばってください…大丈夫ですよ…」などと優しい声で頭を撫でてくれたりもしながら励ましてくれるのである。
俺は痛みをこらえながらも、この柔らかい声の看護婦さんたちはどんな顔をしているのだろうか…と目を開けてみた。
その顔を俺は忘れることができない。
3人とも膿が湧出する俺のケツを凝視しながら、優しい声とは裏腹の、一様に眉間に深いシワを寄せた能面の増女の顔だったのである。

イスタンブルのSADIK(サディー)

2か月ほど前からどこで会ったのか記憶にないイスタンブルトルコ人からメールが入るようになっていた。「3週間東京へ行くから会いたい」などと言う。東京でレストランなどをやっている知り合いのトルコ人に「こいつを知っているか?」と聞いてみたが知らないという。俺は去年、同じような連絡に対して「君は誰なんだ?」と返信し相手を怒らせたことがあったので今回は会ってみることにしたのである。
銀座の天國を指定し約束の時間に行くと奴はもう席に座っていた。


奴は立ち上がり弾ける笑顔で俺との「再会」を喜んでくれた。俺も「なんだ!君だったのか!!」という感じで握手をして座ったが、誰だかわからなかった。英語と日本語の混成言語でイスラム国の話やトルコとロシアの和解の真相などの会話をひとしきり交わした後、俺は「申し訳ないことを言うが、君はいったい誰なんだ?実は思い出せないんだ。」と言ってみた。奴は嫌な顔はしなかった。「僕はサディーですよ。イスタンブルの絨毯屋です。修、あなたは私の店に来たじゃないですか。」「イスタンブルのどこ?」「ブルーモスクの隣。ほら、王族やビルクリントンも来た…高級店ですよ!」
それでも俺は思い出せなかったが面倒なので「そうだそうだ!思い出したよ!」と大笑いなどもしながら肩を叩きあって再会を喜んでおいた。その後、この46歳のトルコ人が仕事で日本に来たことや日本人は人に優しいしだまさないし約束を守るし金持ちでも威張らない話や、イスタンブルから観光客が消えてしまった話やアメリカの中東政策の裏側やエルドアンの公務員追放を支持する民意など、たくさんの新鮮な話を聞くことができて楽しかった。そして、サディーは少なくとも悪い奴ではないことや、歴史に詳しく国際社会のいろいろなことにレベルの高い意見を持っていることなどがわかっていった。
子供のころ、父親はドイツ語をやれと言ったがサディーは日本語のほうが将来仕事に役立つと思い16歳で日本語学校へ入った。日本語はアルタイ系言語なのでトルコ語と共通点が多く日常会話習得に苦労はなかったそうだ。サディーの得意客は世界中にいて、たくさんの高級絨毯を運びながらヨーロッパ、アジア、アメリカの金持ちを渡り歩いている。日本には200回以上来ていると言っていた。
「ところで、6年前に一度店で会っただけなのになぜ今回俺に会おうとしたんだ?俺が金持ちじゃないことぐらいわかるだろ?」
「うん、修はそんなに金持ちじゃない。まあまあだ。でも、6年前に店に来た時の印象が強烈でいつか会おうと思っていたんだ。仕事も一緒にできるかもしれないし…。それに東京に来たら飯を奢ってやるから連絡しろ、と言ったじゃないか。あんたみたいな日本人にはあったことがないんだ。」
俺は嬉しかった。…商売ではなく、友達になりたいから遠いイスタンブルから俺に連絡をしたんだ。6年間も忘れずに…。
それに比べて、そう言われてもなおイスタンブルでのやり取りを思い出せない俺はなんという薄情者なのだろう。
人間関係の情の厚さはトルコ人の大きな特徴なのである。

銀座天國の後、サディーが1か月借りているという六本木グランドハイアット前のマンションの一室で絨毯を見せてもらった。シルクの2.3m×1.6mが50万。1m×0.7mが15万円。しっとりしていて滑らかなシルクの感触は抜群であり、俺はその上で泳いだりしてみた。サディーは泣きながら笑って撮影していた。最高級でかつ安いことを自慢していたが、実際に日本で買う三分の一くらいだろう。

俺は思わず小さいほうを購入した。もちろん15万では買わない。「天ぷら奢ったんだから半値にしろよ。」

その後、俺は家にいるとき、こいつの上に座っている。病みつきになる感触である。ネットで調べまくったが、同程度のものは大体35万〜45万だった。でかいほうは200万弱といったところだった。
サディーは友達なのか、巧妙な商売人なのか…後者なら俺を相手にするはずはない。

得体の知れない東京湾の何か


湾岸道路を横浜を超え磯子を超えていくと終点・幸浦となる。さらに一般道を八景島方面へ15分ほど走り臨海部の工場や倉庫エリアを抜けていくとこのテトラポッドの海岸に至る。
20年以上前、ここでよく釣りをやっていた。俺がやっていたのは海面に出ているテトラポッドのギリギリ先端部まで行き、そこから5m近い長い竿を海へ出して仕掛けを4〜5mの海底まで沈めていく一種の「脈釣り」だった。狙いは「根魚」と呼ばれる海底の岩や海藻が入り組んだところにいるメバルカサゴだった。こいつらはかかると大暴れするので糸が岩やテトラに絡まって引き上げられないことも多いが、合わせて一気に巻き上げて海面から姿を現した時の嬉しさは格別である。

俺はそれほど釣りに凝ったわけではない。釣り船に乗って沖へ出たり、竿を何本も用意して投げ釣りをやったりはしなかった。根魚が活動する日没時に合わせてここにやって来て漆黒の闇に包まれながらたった一人で竿を揺するのが常だった。
静かな東京湾ではあるが、真っ暗な中、テトラポッドの先端部で波をかぶったり、足を滑らせてテトラポッドの穴に落ちて3mは落下したこともあった。波を被りながら真っ暗なたて穴からテトラの凹凸をよじ登って脱出した時の怖さは忘れられない。
それでもなぜか俺はここが好きだった。毎週、吸い寄せられるように通っていた。空き缶リサイクル工場やヘリポートや巨大な冷凍庫群を背にして濁った海面が広がり、生暖かい風が吹き付け遠くかすかに大都市をひとまとめにした音を地響きのように感じ続けるテトラポッドの上。カサゴメバルを狙いながら訳のわからない赤茶色の魚やどじょうみたいなヌルヌルした奴やゴンズイという釣れたら絶対に触ってはいけない毒魚も掛かる。
俺は30代後半に漆黒の夜のテトラポッドでこんなことをしていたのである。
そして俺は突然やめた。
ある夜、いつものように闇に包まれながら真っ黒な海面に仕掛けを沈め竿をゆっくりと動かしながら根魚の感触を待った。竿がブルブルっと揺れた時、「俺がやっていることはなんなのだろう・・こんなに暗黒で危険な所で俺は何に惹かれているのだろう・・深層心理の中でのSEXの代償行為のような感覚…………!」そう思った時、得体の知れない何かに引きずり込まれるような底無しの恐怖が襲ってきた。俺はヤバイものに飲み込まれようとしているのではないか……!釣り道具を全て放り出して俺は車のほうへ走った。とにかくこの場から逃げなければ危ないと思ったのである。
俺は気が狂ったわけではない。東京湾は一見ただの東京湾ではあるが、遥か縄文の太古以来、どれほど膨大な量の人間の悲劇や怨念を沈めてきたことだろう。東京湾に注ぐいくつもの大河流域の惨劇・阿鼻叫喚も含めて…。
あの時から俺は一回も釣りをしていない。


ところで、3年ほど前に「けつ」の手術の顛末を書き好評をいただいた。そして     なんと再発したのである!!
「再発」を近しい人間に告げると、命に関わるものではないこともあってか多くは笑顔となる。それは俺の人間性も関係しているのだろうが、なぜか悪い気はしない。
11月にまたけつを丸出しにして看護婦がみんな眉間にしわを寄せる、地獄のような手術をやる。だからいま俺の想像力はダークサイドに向かいがちなのである。

猛暑の台北を歩く



滞在した4日間はおおむね晴れていた。気温は東京と同じ34度ぐらいであるが暑さの質が違う。超高湿度に重たい太陽光を浴び続ける逃れようのない暑さ。街中の公園の婆さんたちはよほど暑さに強靭なのである。俺は2日目の午後から腹痛に襲われ、メコンデルタの魚にやられた時と同じような食中毒なのか、と思ったがそうではなく暑さにやられたのである。それでも俺はたびたび座り込みながらも歩き続けていた。


101階建ての超高層ビルや整然と整備された街並みのすぐ裏側にはこんな小汚い場所があったりもする。

台北の街は、俺のような年代にとってはどこか懐かしい。

昭和30年代から40年代の前半、子供だった頃の既視感と五感の記憶のようなものが一瞬内側から蘇り思わず立ち止まったりしてしまう。この感覚は、上海や北京やバンコクホーチミンでも感じることはできるが、台北はそんな場面があちこちに散在している。
この感覚は「懐かしさ」とは少し違うのかもしれない。立ち止まる度に、これはいつ頃どこで刻まれた記憶なのか思い出そうとしている。…子供の頃、母に言われて鍋を持って豆腐屋へ行った時の夕方の商店街の匂いだったり、裏町の風呂屋の前で見かけた白いTシャツにジーンズで通り過ぎていく髪の長い少し年上の女の子の姿だったり…。
こうした感覚は決して心地よいわけではなく少し息苦しかったり喪失感を伴ったり…それでも感じたいのはなぜなのだろう。

台北の人々が概ね親日的であるのは1日歩いてみるとわかる。庶民的な店屋に入り日本人だとわかると気を許してくれることが多い。

食べ物屋や土産物屋の店員にそれほどのサービス精神はないが、多くは明るく元気で屈託がない。ある大きな土産物屋の62歳くらいのおばさんは烏龍茶やヒスイの置物やバナナケーキや…あらゆるものを俺に売ろうとしてぴったりくっついていたが、日本語で「最近わたし成績が悪いの」とまで言っていた。「クビにはならないでしょ?」と言うと笑いながら「私なんかすぐクビよ」と言うので俺はドライマンゴーを3000円分購入した。俺はお人好しを自覚してはいる。おばさんはお人好し全員に同じことを言うのだろう。
街じゅうのおばさんやおじさんや婆さんや爺さんの表情はどこか間が抜けていて大らかとも言える。イライラしたり陰険そうな顔つきを見ることがない。おそらく婆さんたちは、公園で孫が全身泥だらけになって遊んでいても座ってにこにこ眺めているだろう。
台北の懐かしさは、あの頃の日本人にどこか似ているこのような気質とも関係しているのだろう。

俺の子供時代は高度成長の前期である。ビルができまくり道路や鉄道の工事だらけの中、埃っぽい鉄道の高架下の空き地やビル建設用地に忍び込んだりして遊んでいた。だからこんなところでも立ち止まってシャッターを押すのである。

台北の地下鉄で人生初めて席を譲られる


台北超高層ビルTAIPEI101」89階からの夕景である。



俺は今年受けたDNA検査で「4万年前に東南アジアで発生しその後ポリネシアミクロネシアを経て台湾、沖縄経由で日本列島にたどり着いた末裔の血が濃い」という結果であったこともあり、4日間台北を彷徨ってみたのである。

8年ぶりの台湾だったが、急速に発展しているエリアと以前と変わらない混沌エリアを見続けて歩き回り、くたくたになって地下鉄に乗って座ろうとした時、その席には「博愛」と書かれていた。当然座るのはやめてつり革につかまった時に肩を遠慮がちに叩かれたのである。振り返ると実直そうで恥ずかしそうな表情を浮かべた20代の若い女性が俺に席を譲ると言うのである。
俺は小さくパニックに陥った。なんでなんや!! 俺はまだ58であり、日頃は40代に見えるとまで言われている俺がなんでなんや!!
しかし俺は「シェシェ」と言って座った。次の駅で彼女が降りる時、でかい声で「シェシェー!」と言って手を振った。
多分、「でかいショルダーバッグを下げて首からカメラを吊るしている台湾好きに違いない疲れた日本人だから国際親善の精神を発揮しよう」と思ってくれたのだろう、と思いたい。しかし、俺は同じスタイルで街を歩きながら台湾のおばさんに2回道を尋ねられている。
さらに、台北一の夜市である「士林夜市」に出かけて暗い夜道で道に迷った時にも20代のメガネをかけた賢そうな女性に声をかけて道順を聞いたが、彼女は「アイルショウユー」と言って一緒に連れて行ってくれるという。俺は30mほど並んで歩いて「アイルアンダスタンドザウェイ.サンキューベリーマッチリアリー.」と言って遠慮した。
こんな薄暗い路地裏で声をかける男を全く警戒せずに連れて行くという親切さに俺は驚愕した。警戒の対象とはみなされない安心感が俺にあることは間違いないのだろう。しかし、それはそれで喜んでいる場合なのかどうか、ややモヤモヤするのである。
それにしても、このような親切は北京や上海では決して起こらない。台湾は4回目だがホテルでも飲食店でも空港でも不愉快なことを経験したことがない。

こいつは2日目に雇ったドライバーで林(りん)君31歳である。東京のサングラスを輸入販売する会社に就職し3年過ごした後、台北支部に異動となり休日は自分のMITSUBISHI車でドライバーのバイトをやっている。「なんでそんなに働くんだ?」ときくと「もっとよい生活がしたいからです…台北近郊はマンションが高騰していて東京よりも高いくらいです。東京近郊で5000万円位のものが台北では8000万はします。…結婚していて子供もいますが今はお父さんお母さんと暮らしています。」
「嫁姑で大変だろ?」と言うと「本当に辛いです。」と言っていた。
俺は台北から片道1時間の人気観光地「九份」(きゅうふん)への行き帰り林君と話し続けた。「将来は東京で暮らしたいです。日本人は台湾人には優しいです。やはり東京は暮らしの質や人の性質が全てに渡って高いです。給料も台北の3倍です。」…「仕事をしていて中国人は私たちドライバーとは交わりません。韓国人はドライバーに威張ります。」と言っていた。
「中国と台湾は全く別の国、という認識が当たり前なの?」と言うと「別の国に決まってるじゃないですか。」と、やや不服そうだった。20世紀の歴史に詳しかったがそれ以前はあまり知らないようだったので (俺も「地球の歩き方」で読んだばかりだったが) 「台湾に清国から漢民族がやってきたのは17世紀だった。オランダとスペインも来ていたがいなくなった。先住民族と漢族はほとんど同化はしなかったらしい。」と教えてやった。「へぇー漢民族もそんな昔からいたんですか」と言い、自らは漢民族とは関係ないと思っているようであった。


かつて日本統治時代に金鉱で栄えた集落「九份」は長年衰退していたが、台湾映画「非情城市」の舞台となり「千と千尋の神隠し」のモチーフという噂によって今は大人気スポットである。歩き疲れて一休みしようにも店は若者が列を作っていた。その中で一軒だけ誰も客がいない店があった。

このおばちゃんが自分の店に手招きしてくれた。おばちゃんによるとほとんど夕方は毎日雨なので10日に1回しか観られないという九份の日没をテラス席を独占して眺め続けたのである。