突然の旅人

大した話でもない黒坂修のアホ旅日記

六本木の善意に救われる

金曜の夜、六本木での会食を終えて帰宅した俺は、財布がないことに気づいたのだ。ああああああー。財布にはクレジットカードが5枚、銀行キャッシュカードが5枚、運転免許証、保険証、マンションのカードキー、立替払いの領収書たぶん10万くらい、現金たぶん7万くらいが入っていた。

俺は独り呻き声を上げへたり込んで両手で顔面を覆っていた。「あーこれは大変なことになった・・」2〜3回意味なく「ばかやろう!このあほんだらがっ!」などと空間に向かって怒鳴ったりしながら、禁煙中なのになぜかポケットに入っていたタバコに火をつけ深く吸い込んだりもした。(残りのタバコは水没させた)

 

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俺は10年近く前にトルコのイスタンブールで財布をすられて酷い目にあったことがあり、田園都市線で網棚にカバンを忘れてなくしたこと、西麻布で携帯を落としてなくしたことがあり、傘は買っても長くて2ヶ月で無くなるのだが、財布を落としたのは初めてだった。おれは、財布に入っていたものをすべて紙に書き出し、当然のこと店にも電話をしたが店にはないという。そして次に、届いていることはないだろうと思いながらも麻布警察に電話をしたのである。

警察署の担当者に財布の特徴や中身などを説明してしばらく待っていると担当が電話に戻ってきた。担当者の声色は沈んでおり、「黒坂さんが言った特徴で調べてみたんですけどねえ・・」という途中で、やはり届いているはずはないよな、と諦めかけた次の瞬間、担当警察官はポツポツ無表情に言い出したのである。

「黒坂さんが言っていた焦げ茶の長財布で、中に黒坂修さん名義の免許証やクレジットカードが入っているものが六本木交番に届いてるんですけどねえ・・」

俺は嬉しさに包まれながら、「あ、ありがとうございます!それは私の財布に違いないです!」というと警官は驚くべきことに「いや、まだわからないですよ。そうとは限りませんよ。」と言い「ええっ?どうして?黒坂名義のカードや免許証が何枚も入ってるんでしょ?」と言うと「そうですけれど、100%黒坂さんの財布とはまだ言えませんよ。たぶんそうですけどね。」と無表情に言い続けていた。その後、電話は財布がある六本木交番の警官に切り替わった。交番の警官は「財布の特徴を言いましょうか?」と言うので「えっ、それは私が言わないと私のものであると確認できないよね?」と返すと「あっ、そうか。」と言っていた。「お金は7万くらいです。」と言うと「お金は入ってませんねえ。抜き取られましたね。」と言っていた。

深夜0時前に、タクシーを呼び再び六本木に向かい俺は財布を取り戻した。中身をその場で点検すると、なんと現金も手付かずで入っていたのである。20代の警官は、「あれっ?入ってたかぁ。」などともぞもぞ言っていた。

深夜の六本木交番前は、目つきの悪い白人や黒人がたむろしていて、酔って気が大きくなってはしゃぐ若い女や男が行き交っていた。

こんなところで、よく財布が手付かずで交番に届けられたものである。交番警官に届けてくれた人について訊いたが、本人が名乗ることをしなかったのだと言う。

そんな善意の人が存在するのだ!

財布を落としたのは交番がある六本木交差点から400mは乃木坂寄りに離れている。そんな距離にもかかわらず届けてくれたのである。俺にはそんなことができるだろうか。他人の物に触れて400メートルも歩けば何かしらの不幸が降りかかる可能性だってあるやもしれず・・・。

どんな人なのだろうか。警官に、男?女?年恰好は?、と尋ねてみたが、本人が名乗りたくない以上はそれも答えられない、とのことだった。普段なら、「君らは、軽い雑談もできねえのか!」と言う場面だが、警官に世話になった今回は言うわけもなく、逆に深々と頭を下げて交番を後にしたのだった。

月並みだが、日本人の、日本社会の民度の高さを実感する出来事だった。

 

 

 

テラスの喜び

ついに、自分のテテテッ‥テラスを所有したのである。2019年初更新は自慢話がベースとなることをお断りしておく。 

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マンション1階部屋のテラスは約40㎡と広めであり、奥の共用部植え込みスペースを合わせると60㎡を超えるのである。。

知人たちに「バーベキューとかもできるんだぜ」と宣伝してきたが、残念ながら今のところ誰からも具体的計画は持ち込まれてはいない。……しかし、やったらやったで後日近隣からの文句になるのかもしれない。それでも、「バーベキューをやってはいけない」とは見たことも聞いたこともないので俺はその手の文句は相手にしない。マンション住人のネット掲示板を読んでいると、子供が走ったとか、騒いだとか、一時駐車をやめろとか、エントランスでたむろしたとか、どうしてそこまで他人の振る舞いに細かく文句を言うやつが多いのだろう、と感心する。管理組合総会では、自転車を住戸の玄関前ポーチに置くな、となったとの議事録を読んでから、俺は自転車をポーチから敢えて公共廊下ぎりぎりにまで出している。

早く煙モクモクで酒盛りバーベキューをやりたいものである。

ガキの頃から集団の中で俺はずっとこういう質だったような気がする。

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毎朝、寒さをこらえて手前の椅子に座ってぼーっとする。休日は朝飯や昼飯もここで食べることが多く、その後ボーっとする。俺はぼーっとすると、嫌な奴をやっつけているところを自然と空想していたり、概してろくなことを考えないような気がするが、このテラスでは不思議とそっちに行かない。少しずつ揃えてきた植物を眺めながら、…これまでいろいろなことがあって今ここに至ったんだなぁ…、とか、何で60にもなったのにここまで何も変わらないのだろう…、とか、俺はこんな見知らぬところで何をしているんだろう…、とか、これからどうしていこうか…、などなど、やや大局的な見地で自分を見つめる思いが沸き上がってきたりもする。

たぶん、ぼーっとした時の漠然としたそんな思いが何かへ向かっていく始まりになる。俺は60年かかってようやくそんな場所を手に入れた。

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最近、冬の鉢花として人気の「クリスマスローズ」。日照不足でも植物が元気に育つという肥料「ALA」を与えたところ素晴らしく勢いづいた。

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右は冬剪定後のバラであり、5月には50~70㎝ほどの丈になって、赤や黄色やピンクの花盛りとなるはずだ。オリーブ3本と「シマトネリコ」は常緑樹。「ヒメシャラ」と「いろはもみじ」、「ニシキギコンバクタ」は秋の紅葉が楽しみである。

 

そんなこんなで今年も暮れていく

8月のウズベキスタン編以来の更新である。その後の人生、いろいろあったが、まだ禁煙は続いている。もう禁煙してから7ヶ月近くになるが、今すぐにでも4〜5本いっぺんにくわえて一斉に点火してモクモクになってニコチンを吸い込みたい。どれほどの快感だろうか。これまで60年の人生の3/4はタバコと共にあったのだからまだまだ抜けられないのだろう。

先週は沖縄にある会社の社長さんと息子の常務さんという実に善良で明るいお二人にお世話になり初めて宮古島へ行った。12月の宮古島の最高気温は22度くらいであり、陽がさせば半袖でゴルフが出来る。

海鮮料理店「海の幸」で食った伊勢海老、鰹、鯛などの刺身は絶品だった。「海の幸」は船を持つ宮古の漁師一家がやっている店だったが、俺はこの店を別にすれば滞在3日間で誰一人本当の宮古島人に出会わなかった。タクシーの運ちゃんも、ホテルスタッフもゴルフのキャディーも飲み屋のホステスもみんな大阪や北海道からの移住者だったのである。宮古島の公式人口は5万1000人ほどだが、実際には6万人以上であり、増え続けているらしい。来年にはどうしてなのか2番目の空港が完成し、空港へ至る全長3.5キロの巨大大橋は400億円の巨費を投じて3年前に開通している。俺が見た日は車はほとんど走っていなかったが・・・。また、島内ではリゾートホテル建設ラッシュが続いていて大量の建設作業員が集結しているようだった。国際観光アイランドを標榜する宮古島は完全なバブルであり、今はさとうきび畑だが、那覇の繁華街と同じくらいに地価が跳ね上がっている場所も多いと聞いた。
・・・俺には何の関係もないが宮古島は何の取り柄を売りにして客を呼ぶのだろうか・・・
沖縄本島のリゾートはもちろん、ハワイに至る広大な太平洋上は楽しいことが何でも揃っていて天候も安定したパラダイスアイランドだらけなのである。

シギラリゾートというところでゴルフをやったが、海岸沿いの南斜面に南欧風の高級ビラが続いていた。各コテージに専用のプールと広いテラスがあって1泊8万円くらいとキャディーが言っていた。キャディーは「中国人、韓国人は風紀を乱すので宿泊できません。中国人、韓国人はあちらの外れにあるテラスやプールがない箱型のホテルに泊まる決まりです。」と言っていた。キャディーの65くらいのおばさんは千葉からの移住者だったが、中国人、韓国人のゴルフで酷い目にあっているらしく「そうするしかないんですよ」と言っていた。箱型ホテルは海に面してはいるが、テラスどころかバルコニーすらなく、強い西日を浴びてひっそりとしていた。時々、奴らが怒ってトラブルになることもあるそうだが、どうあってもプール付きビラエリアには入れないそうである。毅然とした立派な経営姿勢だと思う。沖縄のゴルフ場も韓国人が多いが、刺青を入れた奴が風呂場の脱衣所で携帯で大声で喋るみたいな光景に時々出っくわす。最近、徴用工問題やレーダー照射問題など、半島関係の腹立たしいニュースが多いが、過去何百年間、いや千年にわたって辿ってきた歴史を考えれば、我々とは同じ種類の人間ではありえない、生き物として犬と猫ほど性質が違うのだと思うしかないのだろう。

これは10月始めに行われた長崎くんちである。ブログ空白期間の秋口以降に出かけた各地についても少したどってみたい。長崎出身の女性社員に「今年のおくんちは出し物がすごいですよ!」と聞かされて出かけたのだが、その通りのものすごい盛り上がりの会場から、連れてきてくれた人の目を盗んで俺は脱出したのだった。

大人数ででかい船を担いでグルグル回したり、巨大な盆栽みたいなやつを一人で担いでドヤ顔になったりするのを観ても俺には楽しさがまったくこみ上げてはこないのである。それよりも大盛況のおくんち会場神社のすぐ脇の商店街の寂れ方を眺めながら、もう半年はもたないはずの薄汚い喫茶店で不味いコーヒーを飲んでぼーっとすることの方が好きな俺はひねくれ者なのだろう。東京からくんちに同行していた長崎出身の57歳の男は、僕の故郷の誇りにケチをつける酷い人だ、と言っていた。

10月にはポール・マッカートニーがやってきた。ポールの東京ドームライブは10年少し前の来日時に観に行って以来だった。
76歳のポールはやはり衰えが目立っていて、声の張りや艶はもちろんだが、それ以前に、バラード以外では声を張り上げ潰して歌いしのぐしかなく、きれいに発声することすらができなくなっていた。ほとんどをポールが作曲した美しいビートルズナンバーの数々であるが、そのままのキーで歌い続けることにやはり意味があるのだろう。
俺は確か中学1年の時「レットイットビー」のロードショー上映があり観に行った。だから、すこしだけリアルタイムビートルズを知っている。中学生や高校生だった俺は、ビートルズ解散後もポールのアルバムが出るとすぐに買いに行き、その度にビートルズとはかけ離れた作品群にがっかりを繰り返していた。

11月の宮崎ダンロップフェニックストーナメントの翌日に同じピンセッティングでプレーするゴルフ会に今年も参加した。何度か書いた53歳の昭和漫才師顔ゴルフ狂との今年の戦いはあと1戦を残すのみとなり、20勝25敗で俺の負けが決まっている。俺は、往生際や負け際が悪いタチの悪いゴルファーであり、今年後半はゴルフ狂のロングパットが入るとボールを池に投げ入れてやったり、ピンで殴ったり、ゴルフ狂がスイングする瞬間に自分のクラブを倒したりもしてみたが、やつは動じない強さを身につけていた。ゴルフ狂の方も、俺が密かにインチキクラブや反則ボールを使ってないかチェックしたり、パットの打ち方のルールが変わったことで俺の打ち方は反則であると難癖をつけたりして俺の調子を崩そうとしていた。
来年はどんな手を使ってでも雪辱を果たす。奴に見つからないようにパターのシャフトを曲げておくのもよいだろう。




上は米原から北陸本線特急「サンダーバード」で福井に向かう途中、次は北陸新幹線の黒部を過ぎたあたりから北アルプス方面の車窓、次は客を見たことがない信州松本浅間温泉の朝、下は誰も買わないばかっ高い蟹が並ぶ金沢近江町市場である。どれも仕事でニ〜三カ月に一度は通り過ぎる何ということもない景色だが、こんな景色に心が癒される。

4Kテレビを買ってみた。4Kで観るまでに少し手こずったが、なかなかよいものである。世界紀行もの、芸術鑑賞もの、辺境や山岳海洋冒険ものなどでは圧倒的な威力を発揮してくれる。しかし、「寅さん」はダメだった。名カメラマンによるソフトフォーカスでの日本の美しい風景や帝釈天参道のどこか現実離れした人波や昭和の匂いが漂ってくる寅屋の茶の間の語らいが、風のない人工セットの中で化粧をした俳優により演じられているように見えてしまうのである。
やはり映像というものはなんでも高精細ならばよいというものではないようだ。高精細を超えた光と陰と色彩とフォーカスによる映像芸術というものがあり、それは少なくとも当面はテクノロジーが追いつきようがない領域なのだろう。

突然ウズベキスタンへ ④ タシケント


ブハラを早朝5時の高速鉄道で出て首都タシケントに着いたのは9時前だった。タシケントも2000年を超える歴史を持ち、シルクロードの大中継地だったということだが、今は、幅が50mもあるような道路が整然と整備されて高層ビルが連なる300万人近い大都会である。19世紀よりロシアやソ連により街は作り変えられ、1966年の大地震ソ連により完全に「整備された近代都市」となり、従って大部分は面白みのない単にだだっ広く共産権威主義っぽい街となってしまった。

こいつは、5日前にタシケント空港に到着した夜にホテルまで俺を運んだドライバー25歳である。その日、こいつがしつこく「5日目はここタシケントで朝から夕方まで1日ある。ホテルにいても仕方ないから、俺の車に乗って景色のいい山や湖を観に行くべきだ。120ドルでいいよ。」と何度も言うので「わかった。そうしよう。メシ代も入れて100ドルだ。」と約束してしまったのだった。
その日俺はデイユースで押さえたホテルでまったりして、時々散歩に出ながら世界中にあるマクドナルドやピザハットに行き、公園で強烈な陽を浴びながらビールを立て続けに飲んでその場で寝たりもして、夜の飛行機を待ちたかった。
9時半ごろホテルにチェックインした後、すぐ出発しようとする若者に「出発は10時半にする。部屋に行くから1時間後にまた来てくれ。」と言うと奴は「部屋に1時間もいる理由はなんだ?」と両手を広げて質問した。こんなめんどくせえ小僧と1日中付き合うのかと思うと気が重かった。

山岳地帯の景勝地には、タシケント中心部のホテルから1時間半もかかった。確かにこの山々が遠く中国西部から連なる天山山系の西の果ての部分かと思うとワクワクする気分にはなる。
しかし、ここまでの車内では俺はなぜか強く助手席を勧められ、奴とヘタ同士の英語でかったるい会話を続ける羽目になっていた。そして、俺はこのドライバー小僧がどんどん嫌いになって行くのだった。小僧は世界の動きや日本の状況に詳しいことが自慢のようで俺に度々質問をした。
例えば、
小僧:「日本の若者はなぜ結婚するのが遅くなったんだ?」
俺:「自分のやりたいことをするためには独身の方がいい、ということだろう」
小僧:「そういう考えは改めるべきだ。だから子供が少なくなる。」
小僧:「トランプよりはプーチンの方がまともだが、あんたもそう思うか?」
俺:「どっちもまともとは思えないが、トランプの無知無教養は突出している」
小僧「俺はイエスかノーかで訊いているんだ」
俺:「君はムスリムだと言ったが、酒は飲まないのか?」
小僧:「ムスリムかどうか以前に酒なんて興味もないしいけないことだ」
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小僧のくせにやけに自信があり、経験もないくせに決めつけた言い方や自分勝手な物言いが過ぎる奴だった。こいつが日本人なら間違いなく怒鳴りつけて引き返させ金も払わなかっただろう。

小僧は、「このあたりに僕らはコテージを借りたり、バーベキューをやったりして楽しむんだ。素晴らしいところだろう。」と言っていた。こいつは、日本にもこういうところがあるかもしれないとは思わないようだった。俺はこんな小僧と片道20分もの長距離リフトに並んで座って往復した。「こんなおっさんじゃなくて彼女と乗ることもあるんだろ?」と訊くと「それはいいんだ。今日は仕事だから。」と言っていた。何から何まで話がかみ合わない小僧だった。
2000メートルを超えるリフトの往復は気温15度であり地上より20度低い。半袖のまま連れてこられた俺は風が吹くと震えていたが小僧はパーカーを着込んでいた。


山岳リゾートの帰りに、小僧は俺を地元の人々に人気があるバーベキューハウスに立ち寄らせた。小僧は、俺がどんどん嫌いになっていることには気が付いていないようだった。「俺は羊は食わないからビーフかチキンにしてくれ。」と言うと「ウズベキスタンの羊は臭くないし美味いんだ。食べたほうがいい。」としつこかったが、「いや、羊は食べない」と断った。しかし、出てきたのは下のように羊だった。小僧は「今日はビーフはなかったんだ。」と言っていた。いい加減にしろやこの野郎・・と言いたいのをこらえた。何しろここからホテルまではこいつの車に乗っていくしかないのだ。ビールを立て続けに2本飲み、その後、俺は口をきかなかった。小僧は「俺が日本関係の仕事をするとすれば何をしたらいいか?」とか、その後もいろいろ自分勝手な質問をしてきたが、「アイドンノウ」「アイキャントアンダスタンド」「ノットインタラステッド」と言いながら車では眠りについた。しかし、正直に言うと、この羊は本当は美味かった。

下はタシケント空港で帰りの飛行機を待っているときに「ウズベキスタン、楽しかったですか?」と日本語で声をかけてくれたリサちゃん20歳である。はじめ日本人かと思ったが、ウズベキスタン東部の街、フェルガナに夏休みの帰省をしてお父さんお母さんに会って、語学勉強中の東京に戻るのだそうだ。1年少し前から池袋の日本語学校へ通い、巣鴨のコンビニでバイトをし、田端に住んでいると言っていた。もう眼の表情が日本人に近くなっている。日本の大学に入って、ウズベキスタンと日本の親善のための仕事をしたいそうである。今や、東京で仕事や勉強をしている若者が夏休みに青森や秋田の故郷に帰るだけではなく、こういう帰省風景も当たり前なのだろう。立ち上がると170センチ以上で身長の半分は足ではないかというカッコよさだった。ソウル経由で成田に着くまで、見かけるたびに弾ける笑顔で手を振っていた。
いやな小僧による後味の悪さをすっかりリサちゃんが消し去ってくれた。

帰国して腹痛が続いた。小僧に無理やり食わされた羊の祟りだろう。

突然ウズベキスタンへ ③〜ブハラ



サマルカンドから高速鉄道で約1時間半、古都ブハラは、イスラム世界の文化的中心地として、最盛期の1100年以上前には優れた科学者、宗教家、詩人らを輩出したのだそうである。サマルカンド同様に1220年のチンギス・ハーンの来襲により破壊されたが、16世紀初頭になって当時のイスラム王朝により再建された。その後約500年経って今に至るが旧市街の景観は500年前とあまり変化がないのだという。これは大変なことだと思う。世界中探してそんな街が他にあるのだろうか。

このオヤジも500年前と変わらないのだろう。

ここも表通りから一歩入ればいきなり裏町である。しかし決してスラムではない。下は、街の中心にある広場であり、俺はこの近くの3つ星ホテル「オマーハイヤム」に宿泊した。

夜9時ごろ、1人でフロント番をしている眠そうな30位の男に「明日は早朝4時に出発するので、朝飯のサンドイッチをさっき別のスタッフに頼んだが、ちゃんとやってくれよ。」と言うと、「当然聞いているしわかっている」とうるさそうな顔でこたえたが、4時のチェックアウトではやはり忘れていた。こういう奴は広大な砂漠の中の小さな町で何になっていくのだろうか。

ブハラに到着して歩き始めたのは昼前だったので旧市街の一部しか観ることはできなかった。しかし、今回の6日間の中で、この旧市街で過ごした数時間のインパクトは強烈だった。時間を大きく巻き戻したような別世界・・シルクロードの時代の砂漠の太陽に照らされ歩いているような不思議な静寂に包まれる街・・。




下のオヤジは刃物屋である。「あなたは日本のガイドブックに出ているよ」と声をかけると、奥から持ってきて嬉しそうだった。ヨーロッパからの観光客にも見せて自慢していたが、太ったおばさんたちにハデに褒められさらに自慢話は止まらなくなっていた。

ブハラはこの日34度だったが、乾燥しているのでエアコンは必要ない。昼はステーキを食ったが、ゴムのように硬かった。店員はずっとスマホをいじっていて、ビールのお代わりやミネラルウォーターの注文で声をかけると、2人で、お前がいけ・・いや、お前の番だ・・などと言い合って怠けようとしていた。しかし、やってくると笑顔であり感じよく振る舞おうとするところが特徴のようだった。
食っていると猫がよって来たので、ゴム肉を床に落とすと猫が3匹になった。22歳くらいの店員が「クスクスッ、クスクスッ」と言いながら追い払っていた。

ブハラのシンボルであるカラーンミナレットはおよそ900年前に建てられ、チンギス・ハーンの破壊からも免れたのだという。イスラム教徒に礼拝を呼びかけるためのものというが、18世紀以降は死刑執行の塔ともなり、袋に詰められた死刑囚が46mの塔から投げ落されたのだという。近寄って両手で触ってみたが、なんとも言えない深部から湧き出る熱のようなものを感じた。


ミナレットの隣は「カラーンモスク」である。涼しい風が吹き始める中庭の夕方はひときわ美しい。ベンチに腰掛けて、夕陽に照らされるモスクを眺めていると、心のどこかに蠢いている悔やんだり心配したりが遠のいていき、「今その時」に全身が同化して行くのがわかるのだ。



広場に面した小綺麗なカフェをやっているおばさん?お姉さん?である。ウズベキスタンの人の年齢は欧米人以上にわかりにくい。「ユーアーソービューティフル」などと言いながら一緒に自撮りを試みたのだが失敗していた。カフェを出てしばらくウロウロしていると閑散とした夕暮れの広場に女の声が響き渡った。お姉さんはカフェの前で布製品のお土産も売っていて見て行けと言っているようだった。

ナディールディヴァンヴェギメドレセという神学校史跡の中庭では19時からディナー付き民族舞踊ショーをやっていた。この男はショーを取り仕切るマネジャーであり19歳である。
近くの工房で木彫り細工を見ているとこいつがやって来て「ブハラを楽しんでるか?」みたいに声をかけた。なんだこのガキは・・と思いつつ「ここでやるショーを観たいんだ」と言うと「俺が全てを取り仕切っているゼネラルマネジャーだ。ディナー付きで10ドルでいい。酒は俺のおごりだ。19時に始まるから10分前には来てくれ。」と、クリアーな英語で言い放ったのである。俺は半分以上の確率でガキが小金をだまし取ろうとしているのだろうと思っていたが、大したことでもないので10ドルを渡した。

10分前に戻ると、奴が迎えに出て来て、ほぼ満員なのに4人掛けの小上がり席を俺1人で独占する良い席が用意されていた。奴は子分みたいな少年を使いながら100人弱の全てのテーブルに目を光らせていた。この国では19歳が19歳らしく振舞ったりする必要はないのだろう。奴は毎晩満員にするために団体客を持っている内外のエイジェントをはじめ様々に営業をしているはずだ。19歳でも能力次第では地方政府に認められ、たくさんの年上のスタッフを使い、踊り子たちやバンドミュージシャンらを束ねて興業の代表を務めることができるのだ。

途中、身なりが貧しい見知らぬ東洋人女が俺のテーブルに座り観はじめた。19歳がすぐにやって来て「あんたの友達ではないよな」と確認すると、二言三言怒鳴りつけてつまみ出していた。
こいつは将来どんな男になって行くのだろう。

突然ウズベキスタンへ ② 〜サマルカンド

「ホテルアジア・サマルカンド」は、見どころが集中する旧市街の真ん中にあり、一応四つ星ランクのようだった。


大した部屋ではないが、空調、冷蔵庫など必要なものは全て揃っていた。1泊1万円ぐらいだった。夕方になると涼しい風が吹き始め、中庭のテーブルでゆっくりビールを飲むのが気持ちよかった。サマルカンドは32度くらい、ブハラは34度くらい、タシケントは37度くらいだったが、乾燥しているので東京のジメッとした猛暑に比べればはるかに過ごしやすく汗をかくことがない。

テルマンやレストランなどのスタッフはおおむね親切であり、何かを頼むと確実に実行しようとする姿勢があった。長年ソ連共産主義体制にあったわけだが、中国はもちろん、東欧のホテルよりも遥かに客をもてなそうという表情や態度が明らかだった。夜寝る前には下写真のラウンジでビールを飲んでいたが、制服を着たスタッフも頬杖をつきながらビールをラッパ飲みしてはいた。日本ではあり得ないことだが、日本ではない。それに、こいつも「アナザーワンプリーズ」と声をかければ、スッと笑顔を向けて素早い身のこなしでおかわりのジョッキを運んできてくれる。共産体制にあってもサービス精神を失うことがなかったのは、ここは紀元前からのシルクロードの大中継地、交易地であり、それにより彼らに備わったDNAと関係があることは間違いがないような気がする。

タシケント通りはレギスタン広場から大バザールまでの約2キロを結ぶ、民芸品ショップやカフェ、レストランなどが整然と並ぶ美しいストリートであり、一般車は乗り入れできなくなっている。

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この直径42センチの陶器大皿は30米ドル、ザクロ柄は9米ドルで購入した。ウズベキスタンの通貨は「スム」だが米ドルが流通している。そして、あらゆるショップ、バザールでは商品に値段は表示されていない。買う場合にはまず店員に値段を訊くことから始めなければならない。大皿ははじめ55ドルと言われザクロは20ドルだった。こういう所で俺は「アイラヴカッティングプライス、オーケー?」などと言いながら、言い値の半分くらいの値段を主張することにしている。そして35と9に落ち着いていく。タクシーにもメーターはなく、乗る前に行き先と希望料金を運転手に告げて交渉することになる。10分乗って5000スム=75円、15分乗って10000スム=150円。知らない人との乗り合いとなる。

全てその場の交渉で値段が決まるのはやはりシルクロード商業都市の伝統なのだろう。
こんなに大きくて美しい手描きの絵皿が二つで5,000円で買えるなんて信じられないことだ。日本では一桁違うし大体こんなものが売られているのを見たこともない。

ショップのこんなお姉さんたちとの値段交渉には、不愉快さは何もない。

俺は「シヨブバザール」という巨大市場にも出かけて、さらなる陶器や銅製品や布製品を購入した。

陶器はかなりの重量となり、帰りの大韓航空のチェックインではスーツケースが24キロで完全な重量オーバーとなった。ウズベキスタン人の女性スタッフに「トゥーヘビー?」と言うと、何も言っちゃダメという身振りをしてパスさせてくれた。


サマルカンド旧市街は、メインストリートから一歩入ればこんな街になる。おじさん達があちこちに座り込んで世間話に花を咲かせていて、通りかかると「コンニチワ」「アリガトゴザイマス」「ヤーパンですか?」「ブラックティー飲みますか」などと片言の日本語で声をかけられる。ヒマなおっさん達の好奇の眼にさらされながら、日本人の好感度はかなり高いと感じた。


ソ連時代のボロ車が今だに唸り声をあげながら走っているのは驚きだった。

裏町の住宅街ではあちこちで子供が遊んでいて、こんな眼をしながら写真を撮ってくれと言ってあちこちから近よってきてくれる。ウズベキスタンでは子供を見る大人の眼差しがとても温かく優しい。だから子供が人懐こいのだろう。



この子たちは、こんな舗装もされていない砂埃が舞うスラムみたいなところに住んで・・・というわけではない。各家は通りに面しては狭苦しそうなぼろ家に見えるのだが、扉を開けると広々とした中庭とテラスがあって、テラスの木陰には絨毯が敷き詰められた3畳くらいの小上がりが三つくらいあって、一家がお茶を飲んでいたりするのである。

突然ウズベキスタンへ ①〜タシケントからサマルカンドへ


海外への長時間フライトで、前座席の背中に設置された現在飛行地が示されたこの地図上で、飛行機がちょっとづつ動くのを凝視しながら、時々窓から地上の景色を眺めるのが好きなのである。大韓航空の態度がガサツなCAは「窓の覆いを下ろせ」と言い続けたが俺は無視を続けた。

キルギスの領空、中国西域から続く天山山脈の上を飛行中である。山の向こうはパミール高原、その先はカラコルム山脈が連なっているはずである。
ここから飛行機は高度を下げていき、ウズベキスタンの首都、タシケントへ向かっていく。
短い休暇に大冒険ができるわけではないが、俺は60歳になって7〜8年前と比べて気力や体力が衰えてはいないことを確認したかった。そのため、敢えてやや困難があり決してた易くはないが興味深い旅先を検討し、中央〜西アジアイスラム世界の中心地、ウズベキスタンに決めたのである。まず夕方タシケントに到着し、翌朝高速鉄道サマルカンドへ向かい2日滞在。翌朝ブハラへ電車で移動し、さらに翌日はタシケント。そして夜遅い便で帰国に向かう旅程だった。・・・天山山脈・・パミール高原・・カラコルム山脈・・サマルカンド・・ブハラ……地図好きの子供だった頃、じっと眺めていた地名…、そして遥か紀元前からアレキサンダー大王の時代を経て、大航海時代まで1500年間にわたるシルクロード東西交易の中心地…、ゾロアスター教〜仏教〜イスラム化…文明と民族の十字路であり、ペルシャギリシャ、モンゴル、トルコ、ロシア人種の興亡の中で形成されてきたウズベク族という人々の眼差しや喜怒哀楽・・・。
そして、ウズベキスタンからアラル海周辺の位置に紀元後に存在した弓月国をルーツとするとも言われる平安京設計の主役、秦河勝を始めとする秦氏が古代の日本にもたらした技術や文化と言う観点では、ウズベキスタン周辺は日本の成立と無関係とは言えないエリアなのかもしれない・・それらのほんの一かけらでも感じることができれば・・・。

この巨大な女性は、佐藤さんである。佐藤さんはタシケントのホテル「シティパレス」の支配人であり、おじいさんが日本人なのだ。きっとおじいさんは第二次大戦後のソ連による日本兵抑留の対象となってウズベキスタンに送られその後現地の女性と結婚したのだろう。そこまでは訊かなかったが‥。

翌朝は7時にタシケント駅へ行った。


タシケントからサマルカンドまではアフラシャブという時速200キロ越えの高速鉄道で約2時間半である。ビジネスクラスで5,000円くらいだった。
このハゲデブと女は夫婦である。ハゲは実は40代なのかもしれない。
砂漠と岩山をベースとした景色が続く。


「青の都」「イスラムの真珠」と称されるサマルカンドを象徴するレギスタン広場。
サマルカンドもブハラも東西シルクロードの中間点に位置するオアシス都市であり、13世紀初頭まではソグド人が取り仕切る交易の中心だった。チンギス・ハーンにより13世紀初めに跡形もないまでに破壊され尽くし、14世紀にはウズベキスタンの歴史的英雄であるティムールが再建を行い、孫のウルグベクの時代に現在の歴史的街並みの原型が出来上がったらしい。
これらは「地球の歩き方」によるにわか知識である。

俺はついにここまで来たのだ。



こいつはHISを通じて、サマルカンド1日目の13時から4時間雇ったガイド35歳である。日本語がわりとうまかった。名前は忘れた。途中、鳥のフンが奴に降りかかったところである。

ホテルアジアのラウンジでビールを飲んでいると奴は15分早く迎えにやってきた。そしてニヤニヤしながら開口一番「黒坂様ですね。悪いお知らせがあります。」と言い放った。「えっ!どうしたの!」と言うと「今日はサマルカンド旧市街は車は乗り入れ禁止です。大統領がキルギスの要人を迎えるためです。急に決まりました。なのですべて歩いて回ることになります。」・・そういえばさっきサマルカンド駅からホテルまでの運転手にはホテルの1キロ半も手前で降ろされて30分近く歩かされた・・あの時は着いた嬉しさで文句を言わなかったが・・「あんたなあ!軽く言うんじゃねえよ!俺は専用車でのツアーを申し込んでかなりの金も取られてるんだぜ。大統領だなんだは俺の知ったことじゃねえんだよう!ふざけんなよ!4時間も歩けるわけねえだろうが!別のアレンジでもして半額にするとかしろよ!」
ガイド男はビックリしたツラとなりスマホで誰かと切迫した雰囲気でしゃべり続け「黒坂様、エイジェントと話していただけますか、日本語できますので」と言ってスマホを差し出した。俺は怯える電話のエイジェント女には「事情をすべてHISに話しておいてくれ。金は半額以下にしてもらう。後日HISから俺に電話をもらいたい」と言って切った。その後、中央アジアの強烈な日差しを受けながらの歩きは辛かったが、一生懸命やろうとするガイドには好感を持つこともできた。2時間ほど経過したところで通りのベンチでコーラを並んで飲みながら「会った時は怒りすぎたな」と言うと「いいえ、私だったらもっと激怒しています」と言っていた。その後ガイド男は調子に乗り日本語でのシャレや下品なジョークを連発していた。俺は大笑いなどをしてやっていたが実は時々鬱陶しかった。やはり若い奴をあまりおだててはいけないのである。俺は海外に出ると、どうも怒りとサービスが両極端になってしまいがちなのである。
それにしても今は帰国して3日目だが今だにHISからはなんの連絡もない。ふざけた話である。あと2日なかったら料金は全額返却させてやる。極端か・・。
(1週間経過し俺の方からHISに電話して抗議すると料金全額返還となった。俺は、そこまでは言ってないんだけど、と言ったが、担当は対応が酷過ぎたので全額を返したいとのことだった。)

ここは、ティムールに関係が深かった人々の霊廟が建ち並ぶシャーヒズィンダ廟群である。
ウズベキスタンで印象深かったこととして、現地の人から「記念写真を一緒に取らせてくれ」と言う声が何度もかかったことである。こんな俺もウズベキスタンでは記念写真ものなのである。

向かって左側は空手の先生、右2人は弟子とのことだった。
感動している俺にガイド男は「だいたいそんなことを頼んでくるのは田舎の人だと思いますね」などと余計なことを言っていた。
下は、霊廟内のモスクでの御墓参りのお祈りである。この後も参列者に頼まれて、俺を囲んでの記念撮影となったのである。ガイド男は「私はムスリムではないので」と言いながら先に出て行った。ガイド男は日本語だけでなく、英語もロシア語もできると言っていた。一番大切なのは当然ウズベク語、次はロシア語、次は英語、日本語は4番目ですね、などとも言っていた。こいつの話は時々不愉快だった。しかし悪気はない。不愉快にさせようなどと思っているはずもない。不愉快を感じるガイドラインの何かがこいつとは違っているだけなのだろう。

記念写真に収まることを見ず知らずの人たちに頼まれたのは人生で初めてだった。記念写真だけではなく街を歩いていると頻繁に声をかけられる。特に地元民が住んでいる旧市街の大通りから少し入って行ったようなところではかなりの人気を感じることになる。頭に丸い帽子を被ったムスリムのおっさん達の井戸端会議に引きずり込まれて質問ぜめにあいそうになることも度々だった。

ウズベキスタン各地にはスターリン時代に定住させられた朝鮮人が元になった朝鮮人コミュニティーもあるし朝鮮料理店もある。ビザ不要により日本からの旅行者も増えているらしい。東洋人はそれほど珍しくはないはずなのだが、嬉しくも不思議なことだった。
ガイド男は「チェコ大使館で働いていた時には韓国人のガールフレンドが曜日別に1人づつ合計5人いました。ハチ合わせしたりバレたりしないように大変でした。」などと自慢していた。

遊牧民の伝統文化を持つエリアでは肉の主役は当然羊である。間違っても食うことがないようにレストランでは「ビーフかチキンしか俺は食わない」と言ってウエイターに確認を行い続けた。この料理はウズベク料理の定番、プロフというチャーハンみたいなもので、肉は羊でなくビーフにしてくれと言うことが肝心である。ライスは油でべちゃべちゃしていて牛肉は硬くて本当に不味い。不味いがとりあえず羊臭は回避しているので我慢してビールかコーラで流し込むことはできる。これにトマトとキュウリのサラダをつけて25,000スム=300円くらいである。

この若者がチーフっぽく仕切っていた店には3回食いに行った。若者は親切であり、俺がなにか困っていないか常に気遣ってくれていて気がつくと時々俺のそばに立っていた。俺は時々、遊びとかガールフレンドとか質問したが、ひとつ訊くと倍は答えてくれる。何を言っているのかほとんどわからなかったが、大きく頷いたり手を叩いて笑ったりしておいた。
サマルカンドの若者の眼には曇りや屈託がない。だからつまらなそうな顔をしてがっかりさせたくないのである。


金曜日、レギスタン広場の夜8時過ぎ。若者から家族連れまで本当にたくさんの人々が夕涼みの散歩に繰り出していた。ウズベキスタンの南隣はタリバンイスラム国が攻勢を強め無政府状態となりつつあるアフガニスタンである。