突然の旅人

大した話でもない黒坂修のアホ旅日記

突然ウズベキスタンへ ①〜タシケントからサマルカンドへ


海外への長時間フライトで、前座席の背中に設置された現在飛行地が示されたこの地図上で、飛行機がちょっとづつ動くのを凝視しながら、時々窓から地上の景色を眺めるのが好きなのである。大韓航空の態度がガサツなCAは「窓の覆いを下ろせ」と言い続けたが俺は無視を続けた。

キルギスの領空、中国西域から続く天山山脈の上を飛行中である。山の向こうはパミール高原、その先はカラコルム山脈が連なっているはずである。
ここから飛行機は高度を下げていき、ウズベキスタンの首都、タシケントへ向かっていく。
短い休暇に大冒険ができるわけではないが、俺は60歳になって7〜8年前と比べて気力や体力が衰えてはいないことを確認したかった。そのため、敢えてやや困難があり決してた易くはないが興味深い旅先を検討し、中央〜西アジアイスラム世界の中心地、ウズベキスタンに決めたのである。まず夕方タシケントに到着し、翌朝高速鉄道サマルカンドへ向かい2日滞在。翌朝ブハラへ電車で移動し、さらに翌日はタシケント。そして夜遅い便で帰国に向かう旅程だった。・・・天山山脈・・パミール高原・・カラコルム山脈・・サマルカンド・・ブハラ……地図好きの子供だった頃、じっと眺めていた地名…、そして遥か紀元前からアレキサンダー大王の時代を経て、大航海時代まで1500年間にわたるシルクロード東西交易の中心地…、ゾロアスター教〜仏教〜イスラム化…文明と民族の十字路であり、ペルシャギリシャ、モンゴル、トルコ、ロシア人種の興亡の中で形成されてきたウズベク族という人々の眼差しや喜怒哀楽・・・。
そして、ウズベキスタンからアラル海周辺の位置に紀元後に存在した弓月国をルーツとするとも言われる平安京設計の主役、秦河勝を始めとする秦氏が古代の日本にもたらした技術や文化と言う観点では、ウズベキスタン周辺は日本の成立と無関係とは言えないエリアなのかもしれない・・それらのほんの一かけらでも感じることができれば・・・。

この巨大な女性は、佐藤さんである。佐藤さんはタシケントのホテル「シティパレス」の支配人であり、おじいさんが日本人なのだ。きっとおじいさんは第二次大戦後のソ連による日本兵抑留の対象となってウズベキスタンに送られその後現地の女性と結婚したのだろう。そこまでは訊かなかったが‥。

翌朝は7時にタシケント駅へ行った。


タシケントからサマルカンドまではアフラシャブという時速200キロ越えの高速鉄道で約2時間半である。ビジネスクラスで5,000円くらいだった。
このハゲデブと女は夫婦である。ハゲは実は40代なのかもしれない。
砂漠と岩山をベースとした景色が続く。


「青の都」「イスラムの真珠」と称されるサマルカンドを象徴するレギスタン広場。
サマルカンドもブハラも東西シルクロードの中間点に位置するオアシス都市であり、13世紀初頭まではソグド人が取り仕切る交易の中心だった。チンギス・ハーンにより13世紀初めに跡形もないまでに破壊され尽くし、14世紀にはウズベキスタンの歴史的英雄であるティムールが再建を行い、孫のウルグベクの時代に現在の歴史的街並みの原型が出来上がったらしい。
これらは「地球の歩き方」によるにわか知識である。

俺はついにここまで来たのだ。



こいつはHISを通じて、サマルカンド1日目の13時から4時間雇ったガイド35歳である。日本語がわりとうまかった。名前は忘れた。途中、鳥のフンが奴に降りかかったところである。

ホテルアジアのラウンジでビールを飲んでいると奴は15分早く迎えにやってきた。そしてニヤニヤしながら開口一番「黒坂様ですね。悪いお知らせがあります。」と言い放った。「えっ!どうしたの!」と言うと「今日はサマルカンド旧市街は車は乗り入れ禁止です。大統領がキルギスの要人を迎えるためです。急に決まりました。なのですべて歩いて回ることになります。」・・そういえばさっきサマルカンド駅からホテルまでの運転手にはホテルの1キロ半も手前で降ろされて30分近く歩かされた・・あの時は着いた嬉しさで文句を言わなかったが・・「あんたなあ!軽く言うんじゃねえよ!俺は専用車でのツアーを申し込んでかなりの金も取られてるんだぜ。大統領だなんだは俺の知ったことじゃねえんだよう!ふざけんなよ!4時間も歩けるわけねえだろうが!別のアレンジでもして半額にするとかしろよ!」
ガイド男はビックリしたツラとなりスマホで誰かと切迫した雰囲気でしゃべり続け「黒坂様、エイジェントと話していただけますか、日本語できますので」と言ってスマホを差し出した。俺は怯える電話のエイジェント女には「事情をすべてHISに話しておいてくれ。金は半額以下にしてもらう。後日HISから俺に電話をもらいたい」と言って切った。その後、中央アジアの強烈な日差しを受けながらの歩きは辛かったが、一生懸命やろうとするガイドには好感を持つこともできた。2時間ほど経過したところで通りのベンチでコーラを並んで飲みながら「会った時は怒りすぎたな」と言うと「いいえ、私だったらもっと激怒しています」と言っていた。その後ガイド男は調子に乗り日本語でのシャレや下品なジョークを連発していた。俺は大笑いなどをしてやっていたが実は時々鬱陶しかった。やはり若い奴をあまりおだててはいけないのである。俺は海外に出ると、どうも怒りとサービスが両極端になってしまいがちなのである。
それにしても今は帰国して3日目だが今だにHISからはなんの連絡もない。ふざけた話である。あと2日なかったら料金は全額返却させてやる。極端か・・。
(1週間経過し俺の方からHISに電話して抗議すると料金全額返還となった。俺は、そこまでは言ってないんだけど、と言ったが、担当は対応が酷過ぎたので全額を返したいとのことだった。)

ここは、ティムールに関係が深かった人々の霊廟が建ち並ぶシャーヒズィンダ廟群である。
ウズベキスタンで印象深かったこととして、現地の人から「記念写真を一緒に取らせてくれ」と言う声が何度もかかったことである。こんな俺もウズベキスタンでは記念写真ものなのである。

向かって左側は空手の先生、右2人は弟子とのことだった。
感動している俺にガイド男は「だいたいそんなことを頼んでくるのは田舎の人だと思いますね」などと余計なことを言っていた。
下は、霊廟内のモスクでの御墓参りのお祈りである。この後も参列者に頼まれて、俺を囲んでの記念撮影となったのである。ガイド男は「私はムスリムではないので」と言いながら先に出て行った。ガイド男は日本語だけでなく、英語もロシア語もできると言っていた。一番大切なのは当然ウズベク語、次はロシア語、次は英語、日本語は4番目ですね、などとも言っていた。こいつの話は時々不愉快だった。しかし悪気はない。不愉快にさせようなどと思っているはずもない。不愉快を感じるガイドラインの何かがこいつとは違っているだけなのだろう。

記念写真に収まることを見ず知らずの人たちに頼まれたのは人生で初めてだった。記念写真だけではなく街を歩いていると頻繁に声をかけられる。特に地元民が住んでいる旧市街の大通りから少し入って行ったようなところではかなりの人気を感じることになる。頭に丸い帽子を被ったムスリムのおっさん達の井戸端会議に引きずり込まれて質問ぜめにあいそうになることも度々だった。

ウズベキスタン各地にはスターリン時代に定住させられた朝鮮人が元になった朝鮮人コミュニティーもあるし朝鮮料理店もある。ビザ不要により日本からの旅行者も増えているらしい。東洋人はそれほど珍しくはないはずなのだが、嬉しくも不思議なことだった。
ガイド男は「チェコ大使館で働いていた時には韓国人のガールフレンドが曜日別に1人づつ合計5人いました。ハチ合わせしたりバレたりしないように大変でした。」などと自慢していた。

遊牧民の伝統文化を持つエリアでは肉の主役は当然羊である。間違っても食うことがないようにレストランでは「ビーフかチキンしか俺は食わない」と言ってウエイターに確認を行い続けた。この料理はウズベク料理の定番、プロフというチャーハンみたいなもので、肉は羊でなくビーフにしてくれと言うことが肝心である。ライスは油でべちゃべちゃしていて牛肉は硬くて本当に不味い。不味いがとりあえず羊臭は回避しているので我慢してビールかコーラで流し込むことはできる。これにトマトとキュウリのサラダをつけて25,000スム=300円くらいである。

この若者がチーフっぽく仕切っていた店には3回食いに行った。若者は親切であり、俺がなにか困っていないか常に気遣ってくれていて気がつくと時々俺のそばに立っていた。俺は時々、遊びとかガールフレンドとか質問したが、ひとつ訊くと倍は答えてくれる。何を言っているのかほとんどわからなかったが、大きく頷いたり手を叩いて笑ったりしておいた。
サマルカンドの若者の眼には曇りや屈託がない。だからつまらなそうな顔をしてがっかりさせたくないのである。


金曜日、レギスタン広場の夜8時過ぎ。若者から家族連れまで本当にたくさんの人々が夕涼みの散歩に繰り出していた。ウズベキスタンの南隣はタリバンイスラム国が攻勢を強め無政府状態となりつつあるアフガニスタンである。