突然の旅人

大した話でもない黒坂修のアホ旅日記

プラハ・ワルシャワへ 1


プラハの夜は5月でも体感5度以下に冷え込む。ワルシャワはさらに寒くて昼間でも体感3度だった。大袈裟に言っているわけではない。この冬はプラハワルシャワも最低気温−20度以下の日が続いたらしい。しかし、この寒さが中東欧の旅情に欠かせない要素なのだろう。プラハが台湾みたいに蒸し暑かったら気分は台無しになるだろう。と、どうでもよい入りになったが、いまプラハからミュンヘンへ向かうルフトハンザ機内である。ミュンヘンで4時間近くも待って、それから11時間かけて羽田へ帰る。

世界地図好きの子供の頃、なぜか憧れを抱いた地名・・文化や歴史や今の世界というものを少しは解り出してからさらに絞られていった場所へ向かう旅をこの連休も実行することができた。

プラハ、ヴルタヴァ川である。タクシーの運転手に「これがモルダウ川だな?」と言ったら「モルダウはドイツ語だ。チェコ語ではヴルタヴァだ。」と言っていた。
プラハに4泊し1日だけ早朝出発の日帰りでワルシャワへ行った。ワルシャワは想像以上にどこか陰鬱で空気が重たい街だった。わずか11時間歩いただけでこんな言い方もないものだが、だからと言って嫌いだとか印象が悪いというような浅いことを言っているわけではない。俺の言うことの多くは浅いがこれは違う。陰鬱や重たい空気には1000年にもわたる過酷な歴史が存在するのであり、それでも今は前に向かっている都市の表情や磁力を体感することに強い興味があるのだ。
ワルシャワの話は別の回にするとして、旅の中心だったプラハに話を戻したい。

プラハは10世紀のロマネスク様式から20世紀のアールヌーヴォーまで、無数の歴史的建造物で出来上がった、街全体が建築博物館と言われる世界遺産都市である。13世紀までのボヘミア王国の都であり14世紀には神聖ローマ帝国の首都となり栄華を極めたという。その後はドイツ勢力やハプスブルグ帝国に蹂躙され17世紀からの200年もにわたりチェコ語を禁じられてドイツ語を強制された。第二次大戦ではナチスドイツに占領され、プラハユダヤ人街のほとんどの人々は強制収容所に送られた。戦後はソ連の衛星国として共産主義の暗黒時代に入り1969年の民主化運動「プラハの春」はソ連を始めとするワルシャワ条約機構軍の戦車に踏み潰された。そして、まだ記憶に新しい1989年の東欧革命によりおよそ400年にわたる抑圧の歴史から解放されてまだ28年しかたっていない。


カフカの生まれた家はつまらないカフェになっていた。20代の頃、「変身」「城」を読んだ覚えがある。「城」は俺なりに理解できた感じだが、ある日目覚めたら無数の足が生えた虫になっていた「変身」はわからなかった。たぶんいま読んでもわからないだろう。きっと、ユダヤの2000年にわたる苦難の歴史や20世紀初頭のチェコの状態などを知らなければ理解はできないのではないだろうか。
俺が4泊したホテルは驚くべきことに1406年建造の建物だった。プラハでは歴史遺産ではないそこらのカフェとか酒屋とか土産物屋とかの普通の建物が500年経っていたりする。ホテルは18室しかない小さな4階建でエレベーターがなかった。俺が押さえたスーペリアツインは運悪く4階であり登りが本当に辛かった。足立区あたりには昭和40年代にぼこぼこ建てられた共産主義住宅みたいなコンクリートの箱のようなエレベーターなどあるはずもないアパートに80代の老人たちがあてなく住んでいる。5階や6階に上ったり降りたりできるのだろうか。プラハで足立区など考えたくないが人間の想像は止められない。


ホテルにロビーなどはなく、レセプションには昼間は目が顔の半分くらいを占めているお姉さん(おばさん?)、夜から朝はハンサムな髭、ポニーテールのブラピ似のお兄さんが番をしていた。着いた翌日の朝、雨だったのでブラピに「トゥデイのウエザーはビカムベターかい?」と聞くと「ラジオデハアフタヌーンハサニートトークシテイタ。シカシソウトハカギラナイ。オレニハドチラトモイエナイ。」と言っていた。日本のホテルなら怒鳴り付けるところであるが、奴には悪気がない。スマイルの面でベストな説明をしたつもりなのである。「トゥモローのアーリーモーニングのエアで俺はワルシャワへゴーしナイトにリターンヒアする。モーニングの5オクロックにエアポートまで行くタクシーをコールしてくれ」と言うと「ワンデーデワルシャワハキイタコトガナイ。ホンキナノ?ワカッタ。タクシータブンダイジョウブダ。バットサムシングバッドナマターガハップンスルケースモアルカラプロミスハキャントダ」と言っていた。
もちろん、これがチェコ人気質かどうかはわからない。

やって来た運転手は小錦を小振りな白人にしたような奴で明るい奴だった。
「ユーはチェコでボーンしたのか?」「イェスだ。ユーはジャパニーズなんだよな?」「イェスだ。まさかルックライクチャイニーズと言いたいわけじゃないよな?」「100%チャイニーズには見えない。チャイニーズはアイがシンでスモールだ。だいたいチャイニーズはタクシーにゲットオンしない。日本人は素晴らしい。マナーがいい旅行者ばかりだ。」「チャイニーズは酷いだろ?」「チャイニーズはアチチュードがバッドだし話しかけても知らないフェイスをする。まったくイングリッシュがダメだしそれがどうしたという態度だ。大勢で固まってワーワー騒ぐし唾も吐く。日本人はジェントルだしノートラブルだ。ジャパニーズはクレバーなんだ。」「オールモストジャパニーズはチャイニーズとコリアンがディスライクだ。だから奴らもジャパニーズをヘイトする。奴らはバッドマナーでセルフィッシュでノイジーでストレンジカラーのウエアだ。ダーティーなフェイスのやつも多い。ワールドはフルオブスモールアイズにビカムした。奴らはインクリーズがエクストラだ。エニホエアで生き抜くアビリティーがストロングだ。」
ここで運転手は「ウエイトウエイト・・」と苦しそうに言って車を停車させた。涙を流しながらしゃっくりのような大笑いを続け運転できなくなったのである。その間、俺の肩を叩き続けて奇声をあげていた。中国人ネタが爆笑となるのは世界共通なのである。
「ナイトはホワットタイムにリターンするんだ?ピックアップに来るぜ。料金はハーフプライスでいい。」
運転手の車は自家用車の四駆である。給料が10万で家賃が10万なので2つ仕事をしている、プラハでは1つしか仕事をしないのは医者ぐらいだ、俺は毎日5時間しか寝ていない、と言っていた。ロンドンやパリへは行かないのか?と言うと、ロンドンには4年いたがマムが歳をとり心配で帰ってきた、可愛い子供も二人いるんだ、と言っていた。

プラハの春音楽祭」のメイン会場となるスメタナホールが入り、ミュシャのデザインも施された華麗なるアールヌーボー建築物、「市民会館」のレストラン・プルゼニュスカーでビールを飲み名物のタルタルステーキをゆったり食べていたのだが・・・

例の人々が30人以上の団体で乱入し、ミャウミャウパウパウの大声が響き渡ることとなった。ミュシャアールヌーボーも一気に色褪せさせる彼らが発散する毒素はなんなのだろう。
俺の会社の中国人社員が俺のブログを発見し「よくわかります。恥ずかしいです。言わないで思うより言ってくれる方がいいんです。」と言っていた。こいつは日本の文化が好きで日本に留学しそのまま働いている。こういうものがわかった奴もいるのである。奴は働き者で会社に貢献してくれるが「僕は中国ではあまり漢民族には見られません。ウイグルっぽいと言われます。」と二回俺に言ったので「何言ってんだおめー。全然ウイグルじゃねえよ。お前は南方混じりの完全な漢民族のツラだ」と言うと残念そうな苦笑いを浮かべていた。悪い奴ではない。

カフカのポスターを街のあちこちで見かけた。カフカミュシャスメタナドボルザークも専門の博物館がある。もちろんチェコの民族的尊厳のために戦い抜いた1000年の間の偉大な王や宗教家の多数の巨像が街を見守っている。1000年以上に渡る建築物の街は、奇跡ではなく単なる結果でもない。歴史的偉人・遺産に対するリスペクトが基軸となって今に至る街なのだ。
東京にも本来は、日本史博物館や近代文学史博物館や日本美術工芸博物館があって然るべきだろう。