突然の旅人

大した話でもない黒坂修のアホ旅日記

プラハ・ワルシャワへ 4 (ワルシャワ編)

早朝7:05プラハ発、夕方19:40ワルシャワ発のチェコ航空ワルシャワ日帰りを実行した。片道1時間前後だからワルシャワ街歩きにはある程度の時間を取ることができる。
5月はじめのプラハも朝夕は冷え込むが、曇天のせいもあってかワルシャワは一日中東京の真冬だった。


ワルシャワの街はナチスドイツに徹底的に破壊され、今ある旧市街の歴史的な街並みは戦後忠実に再現されたものである。再現の精度は「煉瓦のひびの一本に至るまで」と言われるほどのものであり、世界遺産に登録されている。
しかし、こんな感想は言うべきではないのかもしれないが・・・、そうと知ってのためか、どこか計画的に作り出した印象が漂うのである。


メインストリートである「クラクフ郊外通り」から「新世界通り」。途中、旧王宮広場やいくつかの歴史的教会があり、コペルニクスの像がある。ベンチに座るとショパンの旋律が流れる仕組みである。

ワルシャワ中央駅がある市内中心部もドイツに跡形もなく破壊されたエリアである。歴史的な建築物は見当たらず街は無表情に平板であり、中欧の古都らしからぬ無骨な高層ビルも建っている。
1944年、ドイツ占領下のワルシャワ市民は、ソ連の策略に乗る形で蜂起し、ソ連にハシゴを外されてしまう。蜂起に対するドイツの報復攻撃は街を破壊し尽くし20万人を殺害し、ユダヤ強制居住区ゲットーのユダヤ人約40万人は銃殺されるか強制収容所送りとなり、戦後まで逃げ通せたのはわずか200人だったと言う。
戦後もソ連の衛星国として、全体主義思想に反するインテリの拉致、粛清まで行われていた暗黒共産主義時代44年を経て今のワルシャワがある。
たった9時間街を歩いただけで簡単に言ってはいけないのかもしれないが、ワルシャワの景観と空気感、磁場は陰鬱で重い。もちろん、陰鬱で重いから印象が悪いとか嫌いだとかという浅いことを言っているのではないことは前にも書いた。



ワルシャワのど真ん中には「文化科学宮殿」がそびえ立つ。ワルシャワ中心部のどこにいてもこの建物がまず目に入る。

何とも陰鬱で威圧感に満ちた建築物である。見ていると息苦しさを覚えるほどだ。タクシーの運転手に「ワルシャワの人はあの塔が好きなの?」と訊いてみたら「あれはスターリンが建てたビルだからね・・あまり好きじゃないよ」と言っていた。
やはり、この建築には悪い根性が満ちていたのである。調べると、1955年建造の文化科学宮殿はスターリンによるソビエトからワルシャワへの「贈り物」として建てられたのである。街中を見下して威圧し監視するソビエトによるポーランド支配の象徴物なのである。「ワルシャワで好きな場所は文化科学宮殿の展望台さ。文化科学宮殿を観なくてすむからね。」・・・現地のジョークとのことである。
ポーランドがドイツとソ連に占領されていた1939年、ソ連ポーランド軍捕虜収容所の2万2千人がスターリンの指令により「カティンの森」で虐殺された。


第二次大戦前のワルシャワにはヨーロッパでもっとも多くのユダヤ人が暮らしていた。ワルシャワ全人口の30%にあたる40万人のユダヤ人はその後ナチスにより作られた隔離居住区ゲットーへと移され、その後ほとんどはそこで虐殺されるか強制収容所送りとなった。ポーランドユダヤ人が多かったのは、ポーランドという国が歴史的に他民族に寛容な政策を伝統としてきたからである。15世紀以降、ポーランドではユダヤ人の自由が原則的に保障されてきたのである。そんな国に限って18世紀以降、ロシアやドイツやスウェーデンに蹂躙され続け、何度も国じたいがなくなったりという苦難が繰り返された。現在でもヨーロッパでは「反ポーランド主義」というものが時折頭をもたげ続けているという。理不尽・不条理に満ち満ちた世界…。
ポーランドユダヤ人歴史博物館」はゲットー跡地に2014年にオープンした。1000年間に及ぶユダヤ人の歴史が様々に展示され解説されている。
エントランスでリーダーらしい年配のおばさんに呼び止められた。「日本からですか?よく来てくれました。ありがとう。」・・・列の中から俺だけを呼び止めたことには何かの意味が込められている。
ポーランドは長い間リトアニアとの連合国だった。第二次大戦中、リトアニア日本領事館の職員だった杉原千畝ユダヤ人の亡命を助けるために命がけでビザを発給し続けた物語はあまりに有名である。関係があるのだろうか。

この「ワルシャワ編」では冗談やばかばかしい話を書くことはできなかった。


この人たちはあと何日生きられたのだろう。