突然の旅人

大した話でもない黒坂修のアホ旅日記

養老渓谷の記憶

千葉・木更津のアウトレットのついでに紅葉の名所である養老渓谷へ行ってみた。

紅葉にはあと20日ほど早かった。

養老渓谷周辺といえば、去年2月の大雪の日に、今は亡き母と娘を乗せたドライブで車が立ち往生する中、信じられないほど親切な地元の方々に救われた顛末を書いた。あの頃は、癌が転移再発してしまいながらも母はまだとても元気だった。一昨年の5月に慶應病院から不親切極まりないさじの投げられ方をされた直後から、俺は知り合いのつてを辿りながら希望の持てる新療法を必死に探し、東京とニューヨークで活動をしているある医師が提唱する特別なアミノ酸を摂取する療法に行き着き、母の転移性肺がんは大雪ドライブの頃には勢いが止まるまでになっていた。慶應病院では原発ガンの放射線療法の後の定期検査で順調と言われていて、次の検査は半年後で大丈夫と言われながら、その半年後の検査では肺転移を告げられ「手の施しようがない」と言われていたのである。俺は、母に新療法を受けさせるとともに、末期ガンから救い出すための本を読みまくり、ネットで情報を集めまくった。知識が増えていくに従って慶應病院に対する怒りは深まった。放射線療法後になぜ免疫力を回復させるアドバイスや情報提供や生活指導を何もしなかったのか、なぜ突然本人に対して手の施しようがないなどと突きつけ、突き落とすのか。
俺は、アミノ酸新療法を提供し親身に生活指導を行って母に希望を持たせてくれた医師に深く感謝している。母は亡くなる1時間前にもその特別なアミノ酸を一生懸命に飲み込んでいた。亡くなる前日に、身体の衰弱が極まり諦めを口にしだした母を俺は必死に励まし、俺と娘のために頑張ってくれ、先生が言う通りアミノ酸大量投与にかけよう、と言い続けた。
母は最後にやっとの事で飲み込んだ後も次のアミノ酸の時間を気にしていた。呼吸が荒くなってしまった亡くなる直前まで前日の俺の言葉を頼りに切れる寸前の希望の糸を何とか切らさずに耐えようとしてくれたことを思うと俺はたまらなくなってしまうのだ。