突然の旅人

大した話でもない黒坂修のアホ旅日記

ねぶたの夜に



俺は滅多に風邪をひかない質であるが、こんな真夏に発熱までした記憶がない。新幹線で青森までは通常3時間ちょっとのはずだが、この日は那須塩原駅の信号故障とやらで5時間も座席のリクライニングを倒して半分眠ることができた。
祭りの熱狂の中にでも身をおけば、少しは深い悲しさや辛さや後悔から逃れることができるのではないかと思い、また、青森の知人との約束もあったので俺は日曜の昼過ぎに東京を発ったのである。

薄暗くなった青森の飲屋街には初秋の風が吹いていた。知人と田酒を引っ掛けて勢いをつけてから見物の最前列に座らせてもらった。


目の前を巨大な電飾絵巻物が次々と通り過ぎ、夥しい数の人々が声を上げて踊り跳ねていくのを眺めながら、いつしか俺は子供達に手を振ったりもしていた。
これも浮世の幻なのだろう。
以下は、今ここに記すべき話かどうかはわからない。中途半端に書くわけにはいかない。しかし、続けてきたこの雑文を今後も続けていくためには、まず今回は中途半端ではありながらも書いておかないわけにはいかないのである。
俺は7月に、悲しさと辛さの極みに出会うこととなった。57という歳になっても、母はこの世の優しさの象徴であり、人生とは何か、人の道とは何かを、おおらかに言葉を越えたところでわからせてくれる人だった。俺はずっと母に褒められたかった。そして、今に至るまで、数え切れない言葉と感情表現で俺を褒めつづけてくれた。
3年間の闘病であったが、亡くなる前日も車に乗せて俺のマンションに連れてきた。部屋の中も歩けないほど衰弱していたが、「ここに来たい一心で来ました」と言ってくれた。送って帰る間際に「この薬できっと身体が動くようになるよ。俺のために頑張って欲しい。」と言うと、もう私なんか・・と言いながらも、静かに頷いてくれた。そして翌日の夕方に訪ねて行くと、おばあちゃんを大好きな俺の娘が、ソファに横たわり息遣いが荒くなっていた母の手を握って励まし続けていた。母は、きちんとお気に入りの服を着てネックレスもつけ眼鏡もかけていた。その日の朝も独りで一生懸命に身支度をしたのだろう。亡くなる一時間前にも、俺が仕入れ続けてきた薬を飲む時間であることを言い、懸命に飲みこむとややほっとした様子になり、すぐに次の薬の時間を気にかけたりしてくれた。俺と娘のために頑張ろうとしてくれた。それを思い出す度に涙が出てしまう。
今回はこれ以上はやめておく。いつか書ける日がきたら、自分のための記録としても書き残していきたい。
ここまで読んでくれたあなたのご両親の健康と、幸せな時間を共有されていくことを祈る。