突然の旅人

大した話でもない黒坂修のアホ旅日記

「絆」とか「つながってる」とかいう言葉について

俺は、ここ数年勢いを増す「絆」とか「つながっている」などの言葉に強い違和感を覚えていた。いや、正確に言うと、そうした言葉を嬉々として繁殖させ、絆やつながりが希薄な人を追い込んでいることがわからない奴ら、メディアの薄っぺらさに腹が立っているのである。


幻冬社新書から出ている森博嗣の「孤独の価値」を斜めに読んだが、普段俺が感じていたことの多くが書かれていて嬉しかった。写真上は裏表紙である。「・・・寂しさはどんな嫌なことを貴方にもたらすだろう。それはマスコミが作ったステレオタイプの虚構の寂しさを、悪だと思わされているだけではないのか。現代人は〈絆〉を売り物にする商売にのせられ過剰に他者とつながりたがって〈絆の肥満〉状態だ。」
そうだ!その通りだ! 言い方もさすがはプロの文章家だ!
さらに森博嗣は本編中で、人間が創造物に感性を研ぎ澄ましたり、また、何かを創造するには孤独が必要であり、科学も芸術も孤独が生み出し続けてきたのだ、という意味のことを書いている。
その通りだと思う。
テレビを中心とするメディアが、絆だ、つながりだ、友情だ、仲間だ、家族だ、夫婦だ、親子だ、独りでは生きられないだ、孤独死の問題だ・・・などと押し付けることによりどれだけ孤独な人の心を蝕んできたか。絆がなくてもつながっていなくてもよいのであり、全ては自由なのだ。人間は独りで生まれてきて独りで死んで行くのである。メディアがまき続ける幻想の麻薬に浸りきり、現代人は精神的成熟が進まなくなってしまった。俺は56歳だが、明治時代なら30歳くらい、今の30歳は15歳くらいではないだろうか。
「つながり」と同じような人を苦しめる押し付けとして、「やりがいのある仕事につこう」とか「生きがいを見つけよう」とか「夢を持とう」などもいけない。

人の世は、人生は、そんなに表面的で浅く語られる様なものじゃない。俺は20年以上前のバブルの頃、「ネクラ」「ネアカ」というような言葉が使われ出して、ネアカはよくてネクラはいけないなどと堂々と言ってのける単細胞が闊歩し始めたあたりから、メディアだけではない全般的な思考劣化が始まったような気がしている。
亡くなって22年になる俺の親父はガキだった俺に言っていた。「俺は福沢諭吉というやつが好きじゃない。奴は、やりがいのある職業につくことが人生の幸せである、などと言っているが、てめえがそうだからいい気になってやがるんだ。仕事と言うのは人に迷惑かけないように食って行き女房子供を養っていけりゃあそれでいいんだ。」
俺も自分の娘息子が就職活動で辛そうだった時、同じことを言ってやった。