突然の旅人

大した話でもない黒坂修のアホ旅日記

瀬戸内の残影





作家、五木寛之はかつて存在した定住所を持たない人々、「漂泊民」について何冊かで著述している。山の漂泊民はサンカ、海の漂泊民は家船(えぶね)と呼ばれていたのだそうだ。そして、家船の民の漂泊の主舞台であったのが瀬戸内海と九州西岸なのである。五木寛之は、日本史の中に日本民族の精神文化の成り立ちを見出すためには、権力の変転を軸とするいわゆる日本史だけではダメであり、日本列島の底辺をささえていた名も無き人々、記憶されることなく消えて行った人々について掘り起こしていくことが必要だ、と書いていた。全くその通りだと思う。この記述もまた、俺がそう思った如くに何処かで使わせていただくことになるだろう。
家船は、船上で生活する移動漁民であり、江戸時代から明治を経て昭和40年頃まで存在していたらしい。五木寛之家船と同時に存在した瀬戸内の「おちょろ船」についても説明している。おちょろ船は要するに売春船である。売春船というと、昭和30年代前半の大阪の運河沿いを舞台とした名作、小栗康平監督の「泥の河」を思い出す。運河沿いのうどん屋の子供と売春船の子供の一夏の悲しい友情の物語だった。戦争の陰を引き摺る、田村高廣演じるうどん屋の親父が子供達を見つめる柔かな目が印象的だった。俺が抱いてきた大きな大人の男の一つの象徴だった。あの頃の大人は確かに大きかった。俺は、あのうどん屋の親父よりも、今やずっと年上だろう。
話は瀬戸内海からだいぶ離れたが、今回俺は、五木寛之による海上漂泊民の著述に触発されて無数の小島が浮かぶ瀬戸内海を観てみたくなったわけである。羽田発7時20分の愛媛・松山行きに乗り空港で9時すぎにレンタカーを借りた。そのまま西岸を北上して、今治からは、6つの島を結んで本州、尾道にまで至る「しまなみ海道」に入った。その一つめの島は大島であり、はじめの写真はその展望台から今治方向を眺めたものである。巨大な橋は、その後尾道へ向けて、伯方島大三島生口島因島向島を渡って行く。
瀬戸内海にはおよそ3000もの島があり、人が住んでいるのは300である。しまなみ海道が結ぶ島々は大きい島々であり、ホテルや博物館や観光船も人気であり海鮮バーベキューが美味かったりもする。しかし、300島の多くは観光とは無縁の周囲数キロという閉鎖的空間なのである。水軍や家船の末裔が暮らしていたり、岡山や広島から数キロにありながら独自の隠された風習が生き続けたりしているのだろうか。俺は今回、そんな磁場にも触れたかったのだが、大島にはそれはほとんど残されていない様であった。ただ2枚めの写真のような、屋根瓦を除き、すべて生のままの材木で作られた家が多く、そんな家だけが集まった集落もあった。かつての水軍船や家船の姿と重なるものを感じた。
メディアでは語られることがない、その土地が経てきた明と暗の残影のようなものに五感で触れた時の感覚は、俺の語彙では表現できない一種の感動なのである。
次回は松山と道後について記したい。