突然の旅人

大した話でもない黒坂修のアホ旅日記

千葉 養老渓谷の気高き人々

千葉養老渓谷の老舗旅館「福水」の部屋から2月9日朝撮影。

関東地方に記録的な大雪が降った翌日、養老渓谷付近の雪道で車が前にも後ろにも動かなくなり、俺は苦難に満ちた一日を体験したのである。俺は2月8日土曜日から、80代も後半になる高齢の母と20代後半の娘を連れて千葉 勝浦に1泊2日の旅行を計画していた。記録的大雪となったその日、買ったばかりのチェーンがあるから大丈夫だろうという安易な判断で、やめた方がいいのではという母の心配を説き伏せて決行に及んだのである。杉並の母宅を14時頃出て首都高を通りアクアラインを通過して木更津に入ったところで高速道は閉鎖。一般道はやがて房総半島の山間に差し掛かって行った。その辺りから車がやや滑り始め、養老渓谷から30分くらいの山の中の県道の上り坂でついに登らなくなりバックもできない状況にはまってしまったのである。片輪のチェーンが切れて外れ、内側の車軸に絡まっているのを見たその時、17時半。あたりは真っ暗で吹雪の中、JAFや保険会社や警察に電話したが誰も来てくれそうもない。スマホの電池もなくなりかけたところで、宿泊するはずだったかんぽの宿勝浦の人が養老渓谷の旅館「福水」と話をつけてくれて、旅館の4WD車が迎えにきてくれたのである。宿に着いたのは20時半だった。
翌日は2割引で泊めてくれた旅館の人が4人も俺の車のところまで来て、反対方向へ発進できる状態まで、でかいシャベルで2時間近くも除雪をやってくれた。みんな嫌な顔一つせず、御礼に渡そうとした1万円を笑顔で固辞して引き揚げて行った。
そしてさらなる苦難の始まりはその直後であった。俺の車は右後輪のみのチェーンなのでしっかり積もった山坂は無理である。県道は除雪車が出ているであろうという考えは賭けに近いものだったのだ。東京方面への県道は途中から除雪されていない状態となり、轍に沿って走らせて行ったがトンネルを超えた登りカーブで車は進まなくなったのである。エンジンを吹かせば吹かすほど車は横滑りし、道路脇の溝に向かっていく。
その後は、俺の車により走れなくなった対向車線の車の人々や工事現場の人たちまでやって来て7〜8人でのシャベル除雪作業が始まった。俺が道をふさいでいるのに誰も文句を言わず逆に励ましまでしてくれる人たち。5m四方の除雪により俺の車を路側に寄せて対向車は通り過ぎて行った。彼らは全員、俺の車は引き返さなければダメだ、この先はノーマルタイヤでは無理だ、何台も動けなくなっていると言っていた。そのうち、工事現場の人が手配してくれた自動車修理の車が来て、左後輪に絡まってブレーキを壊そうとしているチェーンを切断してくれた。そこで彼らに車を押してもらい、俺はバックで反対方向への脱出を試みたがダメであった。300mバックしてトンネルまで行けばUターンができるのである。Uターンして警察に電話し道を相談すれば帰れるかもしれないのだ。止まっている車の場所は携帯の電波が入らないし、暖房のガソリンもずっとあるわけではない。修理のスタッフはとりあえずと言って次の仕事に去って行った。
高齢の母と娘と俺だけになった。15時を回り陽も翳りつつあった。俺は携帯電池が切れないうちに電波が来そうなトンネルまで走った。途中で2回転んだりしながら……
そしてその直後に見た男の姿を俺は忘れないだろう。トンネルの暗闇からジーパンにセーターの60歳くらいの薄毛一九分けの笑みをたたえた人が悠然と歩いてくるのである。「大丈夫ですかー。今行きますよー。」と言いながら。彼は俺の車までやって来ると、爽やかな笑みを絶やさず「まずここでUターンです」と静かに言った。俺が、「みんなUターンはできないからバックで脱出しかないと言ってましたが」と言うと「いや、できますな。」と言った。「私のいう通りにやってください。ハンドルを切りすぎないこと。吹かさないこと。30センチずつ動かすんです。」彼の細かいアドバイスと誘導により5分で車は反対を向いたのだ。「もう出られます。はいやりましょう。吹かさない吹かさない…」彼はずっと微笑んでいてテンションが上がることがない。俺はトンネルまで車を走らせて停車し、黄色い軽自動車で待たされていた奥さんに頭を下げた。「この後のことも主人にお聞きになるといいですね。」と言ってくれた。戻って来た彼は相変わらず笑顔だった。「東京にお帰りですね。私について来てください。東京まで除雪された国道までご案内しましょう。どうせ私もここで引き返してそっちへ行きますから。」
彼は鴨川の人だと言っていた。俺の母は「神様が現れたような方だわ。」と言っていた。道が別れる時彼は停車して、そこから俺が行くべき道を説明してくれた。俺が「あのー」と言いかけると彼は「いやいや」と笑顔で言って去って行った。
俺は今回の旅の苦難を通して何かを学んだような気がする。それは、他人の親切が身に沁みた、という域を超えたものである。俺は高齢の母に判断の甘さを詫びたが「いいえ、こんなに優しく親切な人がたくさんいて日本人はまだ捨てたものじゃない、と思うことを体験できたまたとない旅だった。自分もそうあらねばと考えました」と言っていた。
鴨川の笑顔の気高き男性始め、旅館「福水」の皆さん、工事現場のおじさんたち、対向車の方々、本当にありがとう。