突然の旅人

大した話でもない黒坂修のアホ旅日記

墨田区鳩の街商店街

今回はスマホ写真である。ご容赦を。




まるで40年、いや50年近く前に見ていた商店街の風景なのである。ここは墨田区東向島向島の境目に位置する「鳩の街商店街」である。俺は中央線の荻窪の生まれ育ちであるが、隣接する阿佐ヶ谷や高円寺や西荻にはかつてこのような雰囲気の商店街が活気に満ちていた。中学生だった俺はそんな商店街に、掃き溜めに鶴のような髪の長い女の子が現れ、シャンプーの香りを残しながら自転車で通り過ぎて行くのを呆然と立ち尽くし眺めていたものだった。今の鳩の街商店街にはそんな女の子はいるはずもなく、夢も希望もないパンチパーマで出っ歯の婆さんばかりである。
鳩の街商店街周辺はかつては戦後のいわゆる赤線地帯だったのだ。1キロほどの近隣には永井荷風の「濹東綺譚」の舞台ともなったかつての一大遊郭街「玉の井」があった。鳩の街は空襲をまぬがれ、玉の井遊郭街が戦後すぐに移ってきたというわけだ。鳩の街も吉行淳之介永井荷風の作品の舞台となった。今でも商店街周辺にはその名残を感じさせる建物が一般商店に姿を変えて残っている。
2枚目の写真は、とにかく食品以外は何でも売っている店、3枚目は廃業してそのままの氷屋である。氷屋というものを50才以下の読者はご存知ないかもしれない。かき氷を食わせるわけではない。俺がガキの頃、まだ電気冷蔵庫がない家は多く、氷屋からでかい氷を配達してもらってただの箱である「冷蔵庫」にぶち込み、肉や魚を冷やしていたのである。そんな氷屋の多くは同時に灯油やプロパンガスや米の配達もやっていたが、完全に世の中から消え去った職業である。余談だが、当時の冷蔵庫にはいる肉は豚と鶏である。牛肉は飛んでもなく高級品であった。鶏肉は鶏肉専門店が扱っていた。お袋に連れられてよく買い物に行った俺は、お袋から「鶏肉屋さんは鶏の祟りで鶏目(夜になると視力を失う病気)になってしまうんだよ」と聞かされ怖かった。当時は、他にも、リヤカーを苦痛に満ちた表情で引いて行く「くず屋」、便所の汲み取り業者、自転車で曲芸のように大量の丼物を片手で運ぶ出前持ちなど、悲惨な職業が日常に溢れていた。3枚目はつぶれてそのままになっている何かの工場跡である。俺は高校生の時、新宿余丁町にあったこんな感じのこんにゃく&トコロテン工場でバイトをしていた。来る日も来る日も巨大な水槽で天草を煮詰めてドロドロにして固めていく悲惨な仕事だった。今時こんな工場の残骸が残っているのである。4枚目は、商店街近くの民家である。背後にスカイツリーが見えている。ガキの頃、荻窪のはづれにもトタン板でプロパンガスのこんな都営住宅がたくさんあった。可愛い女の子の家を自転車で探索しているとこんな家であることがわかり、全速力で逃げ帰り見なかったことにした。
現在、東京のどのエリアも観光誘致に躍起であり、墨田区も例外ではない。墨田区の観光の目玉は当然東京スカイツリーである。それも良いのだが、俺には全く興味がない。何の情緒もないただの鉄塔がいきなりできたからといって、自分の生きてきた思い出と重なる部分もなく、時代の夢や希望と重なるわけでもなく、たぶん芝公園の元祖東京タワーに対してはこの先も存在感で超えることはないだろう。墨田区は東京の歴史の影の部分や、素顔になった人間の喜怒哀楽や夢や怨念が地場に染み込んで、その遺跡が今に残る街なのである。雑誌「東京人」あたりと組んで観光誘致の策を練れば、増え続けるシルバー層の気持ちをつかめそうな気もするのである。

ところで、今回の話とは全く関係ないが、向島とかスカイツリーで思い出した。俺は東急田園都市線の鷺沼にすんでいる。半蔵門まで通勤しているのだが、すし詰めの満員電車は、ほぼ毎朝徐行運転になり大幅な遅れとなる。ぎゅうぎゅう詰めで気分が悪くなる人、荷物が戸袋に引き込まれたりすると遅れはさらに大きくなる。この路線は、かつては長津田半蔵門という首都圏南西部を走っていたのだが、数年前にはるか東北方向、向島や北千住、越谷、春日部などを経て東武線の東武動物公園と結ばれたのである。首都圏の南西部と東北部を結ぶ総駅数はなんと69駅であり、朝夕のラッシュ時にどこかの駅で少しの遅れが出ればそれは全線に波及してひどい遅れとなる。毎朝アナウンスが謝っている。
一体誰がこんな馬鹿げた路線延長を考えたのか。企業の都合優先で利用者のことなど後回しなのだろう。沿線には無計画にガンガンマンションをたてるから朝の混みかたも尋常ではない。鉄柱に押し付けられて肋骨がおれるかと思ったこともある。お陰で俺は毎朝疲れきり、頻繁に遅刻となり、社長にしょっちゅう謝ることになる。
ふざけるな田園都市線。この沿線には住まない方がいい。
きょうも10分遅れている。また会議に遅れる。ふざけんなばかやろう。