突然の旅人

大した話でもない黒坂修のアホ旅日記

なぜか八丈島2

俺は離島へ渡るのが嫌いではない。1972年、中学生だった俺はバカな仲間3人で三宅島を訪れて以来、高校時代は毎夏、新島、神津島へ渡っていた。当時、特に新島は治外法権のSEXアイランドとも呼ばれていた。関東周辺からそれ目当ての大量のバカ女とバカ男が東海汽船の船底に乗ってやって来る。高校生の俺たちは夜な夜な飲み屋で酔いつぶれ民宿で昼頃まで寝てからビーチに繰り出し、ナンパゲームをしたり麻雀をしたりしていた。
そんな話はともかくとして、離島というところには外界から隔絶され育まれて来た、あるいは行われて来た、起きてしまった何かを感じることがある。島民が決して口外しない何か。時に謎めいた、時に淫靡な、時に恐ろしい何か。そうした何かが離島に人を惹きつけるのかもしれない。俺がそれを強く感じたのは、沖縄本島から船で30分の近さにある久高島、また、人が住み着いてはマラリアで全滅してきた西表島。かつてはポリネシア系が住み着いたこともあったと言う。西表は1970年代までは無人島だった。今でも沖縄や石垣島周辺にあって孤立する小島の中には島外者立入禁止、島民も決して口外しない奇祭が行われているところがあるそうである。それらついては、宝島社からでている「日本立ち入り厳禁地帯」に詳しく説明されている。
そして、今回の八丈島にも何かを感じてしまった。それは夜の深い闇の中で磁力を強くする。八丈は関ヶ原の合戦で西軍に属した宇喜多秀家が流されて以降、明治初期まで流罪の目的地であった。もちろん、遥かな昔から人が住む島であり、縄文人骨や土器が発掘されている。島は食料生産が安定せず江戸後期にサツマイモが導入されるまで度々飢饉に襲われた。太平洋戦争末期には本土最終防衛基地として総延長60キロとも言われる巨大地下要塞が作られ、現在も立入禁止の巨大迷路として山中に残されているらしい。

八丈本島の北西に浮かぶ八丈小島である。1969年に島民の意思により全島民離島が行われてからは無人島となった。当時の家々も小学校舎も風化が進んでいると言う。


上は、空港近くにある広大な植物公園&ビジターセンターである。巨費を投じてつくりあげ、今もゴミ一つなく整備されているが、訪れる人はほとんどいない。下は幹線道路である。道はよく整備され沿道の亜熱帯植物群が目を癒してくれる。

ふるさと村というところをぶらぶらしていたら、おばさんが「お茶でも飲んで行きなさい」と声をかけてくれた。囲炉裏端で出してくれたふかしたサツマイモは甘かった。八丈の人々は飢饉から救ってくれたサツマイモの改良を200年かけて続けてきたのだろう。おばさんが育て上げた子供達は島を去り、ろくに帰っても来ないそうである。

このカップルは男性が八丈人。女性は横浜の人である。男性は神奈川エリア数カ所で働いていたが最近帰島した。女性は翌日から食堂のアルバイトで青ヶ島に渡る。青ヶ島八丈島の南方70キロに浮かぶ断崖絶壁の島である。空港はなく、海の難所であるため毎日1往復の船便は頻繁に欠航する。島の人口は200に満たずそれも多くは役人、教員、建設作業員など島外者ということだ。女性は「何の予定も立たない本当の不便さがいいんです」と言っていた。


上は裏道で見かける玉石垣である。江戸時代の流人が海岸から玉石を運び作りあげたのが始まりと聞いた。下は街道から少し小道を入った名もない場所である。このような場所も掘り起こせばいろいろなものが出てきそうな匂いがした。

島一番のスーパーである。レジ係の目がぱっちりした女性の名札にはクリスティーヌと書かれていて苗字は日本名だった。フィリピンから東京と思って嫁いだ先が八丈島だったのだろうか。

島寿司である。ネタは醤油づけでありワサビではなく西洋からしが付いている。珍しい食い物ではあるがうまくはない。「あそこ寿司」の店主は坊主頭にハチマキをしめ、二重の眼光はちょっとしたことで今にもキレそうな緊張感を漂わせていた。恐かったので写真はない。昔は今にもキレそうな板前がよくいたものである。

島の夕暮れは怖いほど寂しい。真っ暗な夜の気配がやばいところである。面白いショートトリップであったが俺には二泊は無理だった。翌朝一番の羽田行きでシートベルトをした時、嬉しかった。旅の終わりが嬉しいことはあまりない。