突然の旅人

大した話でもない黒坂修のアホ旅日記

魔都マニラ❶

マニラ滞在4日間の大半は大雨だったのである。1日目、2日目はほぼ一日中大雨、3日目は大雨後曇り、帰国の空港で晴れ出すという最悪の巡り合わせとなったのだ。大雨、それも日本では見たこともないような激雨である。しかし、俺は『これもマニラなのだ。マニラ名物の洪水に巡り会えたのだ。』と自分に言い聞かせて、用意していった『超軽量レインポンチョ』と『レインハット』をフル稼働させて写真を撮りまくったのだ。俺のこのスタイルはホテルのフロントやベルボーイには大いに受けまくり、『グレートレインマン』と呼ばれるほどであった。『今日も街で泳ぐのか?』などともいわれた。俺は、洪水で島になって孤立するホテル、船のように進むトラック、大雨の池で体を洗うスラムの子供たちなどを、車を雇ったり高架電車に乗ったりしながら3日目の夕方まで撮り続けた。俺自身、膝下まで水に浸かり、住血吸虫や伝染病にびびりながらも、何か確実に意味があることに思えたのだ。
ところがである。
雨があがりつつあった3日目の2時過ぎに、俺はバクラランという驚異的な数のガラクタと人間が密集し酸っぱい臭いが漂うマーケットに行き、そこからスラムとは対照的なマカティの巨大ショッピングモールヘ向かおうとタクシーに乗車した。それまでの激しい撮影活動を終え、清潔で高級なところで一息いれようとタクシーを降りて館内に入ったその時である。俺は落胆にしゃがみこんだ。愛用してきた小型一眼レフをタクシーに忘れたのである。降りたところに戻り、30分ほど待ったがやはりだめだった。
俺はあまりの落ち込みに、しばらく動けなかったが30分で思い直した。ホテルに戻り、スマホで撮ろう。日が暮れるまでの2時間で出来る限りの撮り直しをしよう。
パビリオンホテルに戻り、スタッフから尊敬されている感じの50歳前後のベルキャプテンに事情を話すと、彼は心を痛めてくれ、『すぐに信頼できて安いドライバーを探す。10分でやる。すこしでも取り返してください。』と言ってくれた。やって来たドライバー兼ガイド、エディ46歳は実に温厚ないいやつで1時間1200円でわがまま放題を聞いてくれた。途中でいったん車から降りて一人で撮影場所に向かい、なんと鞄から道に財布を落としてさらに深刻な問題を抱えるところだった俺の財布を発見し助けてくれた。俺はその後エディに夕飯をおごった。エディおすすめのレストラン『シーフードマーケット』はアサリのスープがうまかった。
前置き話が非常に長くなった。もうじき成田に到着する。
これ以降のフィリピン・マニラ編の写真はその2時間を中心としたスマホ写真なのである。





マニラという街にはネガティブなイメージがこびりついている。混沌、麻薬、売春、博打、貧困、高飛、人身売買、イスラム過激派…。一方では350年も続いたスペインによる支配とその後のアメリカの進出。東アジアの中で異彩を放つカトリック文化とエキゾチックな風貌の人々。俺は表と裏、正と悪、明と暗部が交錯した存在に蠱惑を感じるのである。ミュージシャンでも名声と金を手にして慈善事業を始めたりするとだいたい音楽はつまらないものになっていく。俺はマニラというところを一度観てみたいと思っていた。
マニラには日本にはない規模の巨大なショッピングモールや高層ビル群の東京と同じ様なオフィス街もある。しかし、ベースにあるのは貧困と混迷である。街の北側にはマニラ中のゴミが投棄され、ゴミの山からリサイクルできそうなものを探して暮らす極貧民が集結するスラム街が広がっている。フィリピン政府はゴミ山の代名詞であったスモーキーマウンテンを国の恥として撤去したが、焼却施設が十分でないためか、別の場所がスモーキーマウンテン化し貧民街が移動するだけという状態が続いている。彼らの多くは南部のミンダナオ島などから仕事を求めてマニラにやってきた人々なのだ。俺は物乞いの子供や売春への客引きがこれほど多い街を観たことがない。1億人近い人口を抱えながら仕事がなければ街は魔都と化していくのだろう。深刻な社会問題も含めて「明と暗部の蠱惑」などというのは、上から目線の言い方であり不遜でさえあることはわかりながらも、俺にとってはそれがマニラに行く動機なのである。