突然の旅人

大した話でもない黒坂修のアホ旅日記

やばい奴との再会

早稲田の付属高校時代、俺はあまり友達ができなかった。16歳にしてすでに無難に生きていけばよい、という姿勢を纏ったつまらない奴が多かった。
修学旅行先で喫煙が教師に見つかった時、「俺はいなかったことにしてくれ」などと頼んでくる奴もいた。そんな高校時代にジャズを教えてくれてバンドを組んだり、街中や電車の中を這いつくばり平泳ぎする男が周囲を驚愕させ続ける映画を撮ったり、酒を飲んだり麻雀をやったりバイトをやったりしながら多くの時間を共にした男がいた。奴は大学にはいると音楽にさらに傾倒していき2年生の途中で中退して俺の前から消えていった。その頃、奴はすでに1級のジャズベーシストであり、俺がいた大学のジャズ研などは相手にもしていなかった。奴は自由で純粋で妥協をしなかったが、表面は軽く明るく常に鼻歌交じりの陽気な奴だった。大学へ入ると奴は野方の親元を出て荻窪と阿佐ヶ谷の中間点の線路際の共同トイレの汚いアパートに住んでいた。飲みに行くとよく怠惰な感じの女がいた。俺たちは女の話はしなかった。奴は守りを身につけた奴等にとっては、引きずり込まれるとカミソリのように危険な男だった。
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そして40年ぶりに再会したのである。もうやめたがフェイスブックに奴のほうから連絡があったのだ。再会の場所は、猥雑な街、蒲田の駅前ロータリーだった。

奴は約束の6時に10分遅れてやってきた。何かに酔っぱらったインドネシア少数民族が街に出てきて瞳孔が開きっぱなしになったような薄笑いを浮かべながらよたよた近づいてきて缶ビールを俺に差し出した。「まず、ここで乾杯だ。おめえ変わってねえなぁ。」・・・・・・こういうやり方に俺は一瞬驚きながら、何かがじわじわと蘇る感覚を覚えていった。「おめえもよく見ると変わってねえなぁ。おめえ大丈夫なのか。風呂入ってんのか。勤め人どもはおめえみたいな奴が一番恐ろしいんだ。おめえが歩いてきた周りだけ人がいなかったぞ。大したもんだぜ・・・・」
奴は60にはとても見えない本物の年齢不詳者だった。


蒲田の昭和40年代風のアーケードを抜け冷房の効きが悪い猥雑な台湾料理店に入って餃子と野菜炒めでビールと紹興酒を飲んだ。1週間前に電話で再会の打ち合わせをした時、60になったからといってカッコを付けた街や店に行くことはせず、雑多な蒲田や大森あたりの煤けた店で餃子でも食いながら安い酒を飲むことにしたのである。駅前広場で再会した後、俺はすぐそこにあった串焼き屋や寿司屋を提案したのだが、奴は「まあ待てよ。まずここで缶をゆっくり空けてから、そんなチェーン店とかじゃなくて、暑苦しいディープなここらしい店を探そうぜ。お前せっかちだなあ。」と言った。せっかく40年ぶりに会ったんだからこの時間を大事にしよう・・お前はいい加減で表面的だぞ・・もっと感動はねえのかよ・・心の底から話をする気はあんのかよ・・俺はそう言われているような気がして情けなかった。あれから40年、日々に流されて自分の在り様について正面から考えたり感じたりすることを避けて生きてきた人間が、鋭い人物に出会って視線を避けているところを見抜かれたような気がした。

店を2回替えて0時半ごろまで飲み続けた。話は奴のその後の変転流転と高校時代の出来事が中心だった。奴は「だいたい俺が面白い作戦を考えて、お前が周囲を押さえつけたり騙したりして実行に移すことが多かった。」みたいなことを言っていた。俺は反対だと思っていたが、例えば自主映画の製作費をクラス中から集め、そのほとんどを飲んで遣ったことがばれたときに逆切れした話などを聴くと、俺も相当悪かったのだなあ、と嬉しくなったりもした。この野郎とかバカ野郎とか言いながら笑いあい、周囲を見るとみんな20歳以上年下の奴らがおとなしく飲んでいた。

奴が数年前に作ったCDをもらった。ボサノバをベースにした奴のギターを中心とした弾き語りである。奴の詩はガラス細工のように繊細でナイーブで孤独である。音は、高度を極めた後に余計なものがそぎ落とされていった洗練である。
奴は40年の間に2回結婚して2回別れ子供がいないことが残念だと言っていた。スタジオミュージシャンがずっと本業と言えば本業なのだろう。バリ島に暮らしていた時期もあり音楽のほかに予備校の教師をやっていた時期もある。
1件目の台湾料理店と2件目のたこ焼き屋のねえさんに「こいつ60なんだぜ。驚くだろ。得体がしれないだろ」と言うと、奴が「ポリポリ」などと言いながら頭を搔くのを見て大喜びしていた。
俺は奴からこの夜40年ぶりに、暑くて油が染みついたような蒲田の街で、一時の開放感のようなものを味あわせてもらった。

6月は小旅の季節


還暦を祝い、31歳になる娘夫婦が箱根の旅館に招いてくれた。箱根塔ノ沢温泉・環翠楼は開業400年。現在の建物は大正9年から約100年にもわたり変わらぬ姿で早川沿いに佇んでいる。伊藤博文夏目漱石を始め日本の近代史を彩る偉人たちの足跡が所々に刻まれている。

この部屋に泊めてもらった。

100年経過した木造の4階建にもかかわらずどこにもくるいはない。4階の大広間には驚くべきことに柱すらないのだ。
4年前の9月に、まだ元気だった母と娘を連れて近くの萬翠楼福住という、やはり開業400年で明治大正の偉人に愛された名旅館に来た。おばあちゃん子だった娘には、それも思い出深く、今回俺をここに連れてきてくれたのだろう。
箱根の湯本から塔ノ沢にかけての早川沿いに連なる木造文化財名旅館はどれも存在を主張しない。森の木々や渓流や、風や雨とも一体化して佇んでいる。

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6月は株主総会の月であり、あちこちに出張が多い。広島でレンタカーを借りて厳島神社に行ってみた。前の夜は広島にある会社の社長に誘ってもらい広島名物をご馳走になった。ご馳走になったのは確かなのだが、小綺麗な居酒屋風の入り口の装飾に「ウリボウ」を発見したときは激しく動揺した。俺は、羊肉、鹿肉、山羊肉、鴨肉、それに、猪が大の苦手なのである。
72歳にしては大量の白髪、黒ぶち眼鏡の奥の目が豊かに喜怒哀楽の変化を物語る社長は、猪の焼き肉から取りかかっていた。事前に部下の人から「社長がやりますから手を出さないでください」と言われていた俺は、「息を止めて食って、こりゃうまいなどとウソを言おう」と観念していた。
しかしである!ニンニクやニラやキャベツと一緒に食うとわりと食えるのである。決してうまいとは言えないが、社長には「こりゃうまいなあ。前に伊豆で食ったのは臭くてダメだったけどこりゃいけますねえ」と言っておいた。白髪社長の目には満足の笑みが浮かんでいた。「伊豆はダメよ。広島のイノシシは山ん中で寒い冬を越えてるから臭くないし味がいいのよ」と言っていた。焼肉の次は鍋となりついには締めのラーメンとなる。イノシシだしのスープは流石にケモノ臭が強く、俺は表面をコショウで埋め尽くした。白髪社長は「本当は嫌いなんじゃないの?」と言うので「そう。実は大嫌いなんですよ」と言うと何故か3人の場がさらに明るく盛り上がっていった。
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俺は観光地のお土産屋でついこういうものを買ってしまいがちなのである。


広島から1日おいて青森に行った。上は奥入瀬渓流、下は十和田ビューカントリークラブから望む八甲田山。1日目のゴルフは陸奥湾に突き出た夏泊半島の断崖に広がる夏泊カントリークラブでやった。森がない荒れ地のようなところに造られたスコットランドのようなコースには突風が吹き荒れていた。例の腹筋男は強風にやられて無茶苦茶になり105を叩いていた。ざまあみろ。
夜は大酒飲みの地元社長、専務と地場の魚介で飲み歌い、青森ワシントンホテルというクラブ合宿の女子高校生がジャージでウロウロしているしがないホテルに宿泊した。
フロントに電話してマッサージ40分コースを頼み、待っていると77歳くらいのおばさんがやってきた。こりゃ下手そうでついてねえ、と思ったのは大間違いであり、すごい腕の持ち主だった。褒めるとおばさんは、自分はこの界隈では人気がある、と言っていた。
しかしおばさんはずっとしゃべり続けていた。自分はなんと三回も結婚経験があり、1人目はロクに働かないバクチ好き、2人目は酒乱の暴力、3人目の話は覚えていない。それから、次男の嫁が家事放棄のパチンコ狂い、どの嫁も亭主を尊重せず今は女の方が悪い時代・・という話。要するにこの世の不幸という不幸を語り続け、だから自分はこんな歳でも働かなきゃならないということのようだったが、俺はマッサージの腕の良さにリラックスして返事もろくにしなかったはずである。40分コースなのに1時間近くになろうとしていた。俺は、時間過ぎてるよ、というとおばさんは「いいんだよ。あんたいい人だからサービスさ。」と言ってさらにストレッチをやってくれた。俺は60分の料金を払うと、おばさんの顔はみるみる明るくなり何度も礼を言って去って行った。
おばさんは今日もひどい目に遭い続けているのだろう。

青森の後、週末を挟んで金沢に行き信州松本へ向かう途中の長野駅。乗り継ぎの40分で蕎麦を食い金沢でもらったのどぐろ寿司を食うことにする。

そして一日おいて北陸線米原から福井に向かっている。隣の家族連れはフランス語を話している。

還暦でタバコをやめる


ついにその時がきたのである。俺は60歳の誕生日の翌日から禁煙することを決め、もう数ヶ月前から知人に宣言しまくり、会社では「もし“発見”したらその場で1万円を払う」約束まで発表してその日に臨んだのである。今日で5日目になるが、初日と二日目は、就寝前と朝メシ後に耐えられず1本ずつやってしまった。やった後、何という意思の弱さなのかと腹が立ち、部屋中の灰皿を仏壇の隣に置き、取ろうとすると写真の母と目が合うようにしたし、余っていた全てのタバコをうなりながら流しに水没させた。その後3日間は一本もやらずに禁断症状に耐え続けている。
思い起こせば、15歳の時に時々吸い始め、高校に上がってからは親父やお袋の前でも堂々と吸っていた。その後、45年間やめたことは一度もない。それほど俺のこれまでの人生に欠くことができず、快感ホルモンを分泌させ、喜びや苦しみを共にしてきたタバコをついに断ったのである。
「還暦」とはそれほど堪えるものなのだ。
親父が還暦の時、俺は17歳だったが、親父はとんでもなく大人であり岩のような重々しさと威厳があってすでに老境の只中にいた。それに対して、俺はきょう、アロハシャツに短パンでアウトレットを歩き回り、ユナイテッドアローズで安い麻ジャケットを買ったりしている。やること、考えていることは30歳の時と大して変わらない軽さである。確かレヴィ・ストロースというフランスの哲学者がかなり前に言った言葉だと思うが、「今、人々は常にショッピングセンターを歩き回っている。そして、ショーウインドーに映された自分の姿を見て一瞬ハッとするが、またすぐに歩き回るのだ。」・・精神的未成熟の時代を見事に予見しているように思う。
そんな未成熟感の中にあるほど逆に「還暦」が堪えるのである。
2016年の発表では、日本人の男の平均寿命は81歳であり1990年の76歳から5年も伸びている。しかし、健康年齢は71歳が平均らしくこれには変化がない。後、10年ちょっと!・・
さっき数えてみたが、これまで俺は19カ国を旅してきたが、まだまだ知らない世界を見てみたいのである。仕事だってやり遂げねばならないことがある。近郊の田舎に小屋を買いバラと池越えの超ショートホールの庭も作りたい。気の置けない人々とくだらないことを言い合って笑っていたい。そして、何かを習得して少しは成熟し深くなっていきたいのである。
・・・どのくらいで禁断症状から抜け出せるのだろう・・・。

還暦となった俺が嬉しいのは、こんな大したこともない俺を喜ばせようとしてくれたり、俺に何かを期待してくれたり、一緒に笑い合おうとしてくれる人たちがいることである。
写真は、六本木の裏通りの雑居ビルにある小さなイタリアン。美熟女!3人が還暦祝いに招待してくれた。「こういうことが続くあなたは幸せ者よ」と言われ「やっぱり人徳じゃねえの」というと3人とも無視していた。7時前から始まり深夜1時すぎまで、50前くらいの只者ではない空気を漂わせ、次の瞬間切れそうな緊張感と独特の色気を発散する無口なイケメンシェフによる絶品イタリアンが続いた。美熟女達はこういう隠微な店が好きなのである。隣のテーブルにいた場違いのどんぐり顔30代男と20代女2人のグループはシェフの緊張感と美熟女3人の圧にやられて、男はムリな余裕を装おうとはしていたが徐々に押されていき満足に注文もできなくなって帰っていった。その間笑いあい、時に俺の甘さや弱点についての指導もあり、俺は60であることも忘れていつものように調子に乗っていた。見送られてタクシーに乗り込むと40くらいの運転手が「すごい熟女軍団でしたね」などと言っていた。「なぜ、すごい、までつけるんだ?」ときくと「いや、すみません。なんとなく・・すみません」と言って何も言わなくなった。

薔薇のベランダー


バラの季節となった。1月の半ばに葉を全部落として剪定した時は30〜40cmの裸の枝だったものがわずか3ヶ月でこうなるのである。1月の剪定は単に刈り込んではいけない。葉を落としてから1週間そのままにして、栄養分が下の方へ降りてくるのを待ってから そこだけ残して剪定する。
と、知ったかを語ったがやらない人にとってはどうでもよい話だ。

NHKで「植物男子ベランダー」というドラマをやっていると聞いた。いとうせいこう作、タグチトモロヲ主演とのことだ。俺は観てないが、やはりNHKは時代を捉えていて常に実験的な姿勢を感じる。溢れ返るバカバカしい番組とエセ左翼偏向報道に酔い続け日本人の民度を下げながらぼろ儲けを続けてきた民放テレビ局は、誰もがスマホカメラで私設テレビ局を開局できる超高速通信時代には貧乏会社に成り下がるだろう。ざまあみろ。
前にも書いたが俺はバラのベランダーなのである。

今日はベランダにバラ観賞用の椅子を設置した。5年前にバリ島の工場で買い船便で運んだチーク材の椅子である。椅子は値切って確か1.5万円位で買い、こりゃ日本で買う1/4だぜ、と喜んだが、輸送費と輸入関係費用が10万もかかり結局日本で買う倍になった椅子である。これから毎朝この椅子に座ってアイスコーヒーでも飲み、バラの変化を観察するのが俺の静かな楽しみになる。
もう少し俺のバラを観てやってください。




ベランダ園芸の中でも頻繁な水やりや施肥やら剪定やら消毒やら・・やることが多いバラを、4年前になぜ俺は突然やり出したのか、バリ島椅子に座って考えたがよくわからない。人は裏切るがバラは決して裏切らない・・などということではもちろんない。どこかでバラを観て俺もやってみたいと思ったわけでもなく、ガキの頃、家の庭にバラがあったわけでもない。

俺は部屋の中では、観葉植物をやっている。写真のアンスリウムスパティフィラムやシュロ竹などだが、世話は簡単だ。コツはどんな陽射しを好むかによって置き場所を選ぶことくらいである。
60近くになって俺の遺伝子のある部分が、俺を植物栽培に向かわせているのだろう。前に書いた遺伝子検査で俺は、南アジアで発生しミクロネシアポリネシアを経て台湾経由で日本列島にたどり着いた
性質が強いらしい。
60代の半ばまでには、地価が暴落しているはずの房総半島の中ほどの森に小屋を建てて、バラを植えまくり、バラに囲まれた池越えの30ヤードくらいのショートホールを自分で作ることにしたい。

ふざけた街 恵比寿

恵比寿に5人で飲みに行ったのである。写真の汚い通路の向こうに人気のバーがあるということだったが満員で入れなかった。

恵比寿は東京カレンダーという雑誌の「好きな街」ランキングでは、2位の銀座3位の表参道を抑えて1位となっている。
37年前、大学4年のころ俺は夕方になると恵比寿の小さな飲み屋のシャッターを上げ、ひとりカウンターに入って、前夜の皿やグラスを洗い、水で薄めた悪どいビールを作り、水道水で満たしたニセミネラルウォーターのビンを並べたりして7時くらいからぽつぽつやってくる客をさばいていた。狭い客席はジャズピアノをやっていた無口な女が面倒を見て、酒も軽食もすべて俺が作って出すのだが、氷を丸く削るとか、そこらで売っているチーズ二切れを斜めに切って出すと多く見えるなどつまらんことを覚え、客のおやじどもとは関わらないようにしていた。店のオーナーは12歳くらい年上の3流ジャズボーカリストだったが、一晩5千円のバイト料金10日分を踏み倒して音信不通となった。
要するに、40年近く前は恵比寿なんて湿気の多い場末の混沌とした街だったのである。
しかし、恵比寿の街は変転し、東京一の人気エリアになった。

その日、一軒目は「初代」という白壁のしゃれた蕎麦屋だった。つまみの小品はどれも旨く、締めの蕎麦もなかなかだった。6時半から始まってはじめのうちは若いとぼけた感じの男の店員が面倒を見てくれた。ビールを飲み「響」のハイボールを5杯くらい飲んだあたりから25歳くらいの不愛想でテキパキものを言う角張った女に担当が代わった。女は普通に注文を取るが、目つきにスマイルはなく何でも自分が正しいと言わんばかりにカサカサしていた。同席していた49歳の常に腰の低い男は、いかに家で嫁に邪険にされているかを語り続けていたが、角張った女が登場してからやや勢いを失いつつあった。自宅と同じ空気の成分を吸い込んだのだろう。
そして、8時半に近づいたとき角張り女が刺々しくやってきた。「そろそろいいですか!もう次のお客さんが並んでますからっ!」・・・・・・・・
あああー、なんという悪い言い方なのだろうか。
驚きで食ったばかりの蕎麦を噴出しそうになるのを堪えるのがやっとであった。同席の女子二人も目を釣り上げながら憤慨していた。俺は失礼な店に出っくわすと激しく怒鳴りつけて紹介者を二度と行けなくすることを散々やってきたが、この日は女子がいたのでやめておいた。立ち上がり「そういう言い方はねぇよなぁ」と底物腰男に言いながら階段を降りると客が外まで並んでいた。マネジャーらしき男に「姉ちゃんの口の利き方がよくないよ」と言って通り過ぎると無視していた。こんな店を有難がって延々並んでいる客というのもおめでたい奴らである。
人気の恵比寿でも行列ができるおしゃれな割烹蕎麦屋「初代」はいい気になり世間を舐めた店であった。
次に、俺たち一行は「バーに行って飲み直そうぜ」ということになり近所の「トラック」という店の丸テーブルについた。トラックはたぶんタンノイ製のでかいスピーカーが設置され、60年代後半から80年代前半を中心とした洋楽アナログ盤を聴かせる店のようであった。俺は入った瞬間からカウンターの向こう側で仕切っているヒゲでメガネのいかにも音楽通を気取った50くらいの男の嫌な目つきに気づいていた。30ちょっとの小僧がブスッとしながら注文を取りにきて女子たちが迷っていると小僧は文句を言いそうなツラになっていた。俺はメーカーズマークのハイボールをやりながら、目の前に灰皿らしきものがあったのでタバコを指に挟みカウンターの向こう側のヒゲメガネに「タバコ吸っていいんだよね?」と声をかけた。ヒゲメガネはやや強張りながら「それタバコですよね。いいですよ。」と言うので「タバコに見えるだろ?」と返すと目をそらしていた。野郎はマリファナじゃないよな、とでも言いたかったのだろうか。
しばらく底物腰男と、以前書いた上越新幹線でヤクザ紛いと大げんかになった時、身を呈して殴り合いを止めてくれた60近い公家顔男の暗い家庭環境の話で静かに笑い合っていると、注文取りの小僧がやってきて「もう少し静かにお願いしますよ。うちは音楽の店なんで。」と言い放った。いくつかのテーブル客も普通に談笑していて我々が特にうるさいはずはないのだが、これはヒゲメガネの指示だったのだろう。何が音楽の店だ、あほんだらがっ!、音楽のわからない野卑な奴らが来たみたいに蔑んだ目を向けやがって、大したこともねえくせにふざけんな、と思いつつも女子がいるのでやめておいた。話は低物腰男の鬼嫁話から初老公家顔の不幸家庭話に中心が移っていったころ、また浅黒い小僧がやってきて「もう少し静かにしてください」と真顔で言い放った。俺はもうすぐ60、公家は58、低物腰は49、女子二人は・・・45以上なのである。(ごっごめん💦)30少しの小僧店員というものが大人客にものを言うときの口の利き方というものが一昔前まではあったはずである。俺たちは立ち上がり店を出た。目を伏せてありがとうとも言わないヒゲメガネに「うるさくして悪かったな。もう二度と来ねえから安心しとけ。」というと何かを言いかけていたが目を伏せた。
気分の悪い我々は、もう一軒ショットバーに行き、そこでも20歳くらいの店員に「シャンパンは高いですよ」などとなめた口を利かれていた。60にもなって息子より若い小僧に「シャンパンは高いですよ」などと言われなくてはいけないのはもしかすると俺もいけないのだろうか。年齢相応の威厳とか経験や教養が滲み出ていないとか、‥‥いやっ!俺より情けない風体の奴はいっぱいいるはずだ!俺は街の仕立て屋チェーンに裏から流されるゼニア生地のスーツを特別価格で購入し着ているし、ネクタイだってアウトレットのセールでアルマーニ中心である。散髪はQBだがメガネはアメリカの安売り通販からグッチを直輸入しているんだ!・・・えっ?そういう問題ではない?‥。
今回の恵比寿飲食ツアーでわかったことは、人気NO.1の街、恵比寿に巣くう店員どもには世間をなめ大人に対する敬意などみじんもない奴らが多いということだろう。3軒行って3軒とも大人をなめた生意気な店員どもだったのだからこれはただの偶然ではない。
世の中は確実に悪くなっている。国権の最高機関であるはずの国会ですら「ソンタク」だ「改竄」だ「セクハラ」だに終始し罵り合っているのだから若者が大人をバカにするのも無理はない。

ハワイとダイエット


ワイキキからダイヤモンドヘッドを通り越した東側にあるカハラホテルの部屋から名門ワイアラエカントリークラブを去年に続き再び見下ろすことができたのである。今回は会社で取引先のお客さんを連れての視察&ゴルフツアーを企画し俺も便乗した。

ホノルル市長のカーク・コールドウェルさんは65歳で奥さんは日本人、彼はサーフィンの名手である。今後、ハワイでの仕事についてわからないことはなんでも訊いてくれ、と言ってくれた。テレビ局やラジオ局の社長とも面談したが、ほとんどの時間はゴルフをやっていた。初日は羽田を夜10時に出て6時間半乗ってホノルルに朝10時に到着してそのまま米軍専用の素晴らしいゴルフ場へ向かいラウンドした。そして翌日も翌々日も別のコースでラウンドした。俺はもうすぐ60歳になるのだがサントリーセサミンを飲み始めてから疲れにくくなったような気もする。(ほかに、毎朝EPA/DHA、カルシウム/マグネシウム、ビタミンACEなどのサプリを飲んでいる)

アメリカはどこでもそうだが、ハワイのレストランで出される食い物もとにかくでかくて大量である。写真は帰る日に空港へ向かう途中で朝飯に立ち寄った店で出された「ロコモコ」(ご飯の上にハンバーグと目玉焼きがのったやつ)であるが、3分の1しか食えなかった。今回も、すっかり親しい友人となった日本語ラジオ局を経営する150キロの巨漢、陽気で信じられないほど親切なデヴィッドとロビン夫妻に全て案内してもらったのだが、連日、岩石のようにでかいステーキやテーブルを埋め尽くすタイ料理などを大量のワインで流し込み、俺は滞在正味3日で2キロも太ったのだった。

俺はハワイに行く1ヶ月前から流行りの糖質制限ダイエットに取り組み、毎日大好きなご飯やパンや麺類を制限し、不味い低糖質製品に代えて我慢を繰り返す苦行を重ねてようやく1.5キロ落としたところだったのである。

これらが俺が食い続けている低糖質食品群である。パンは「ブランパン」と言ってローソンでしか売っていない。普通のパンの3分の1以下の糖質量でありかなりのまずさである。週に一度は朝に会社近くのローソンに行き棚中のブランパンを買い占める。米に似たものはこんにゃく米であり、普通のうまい米にこいつを半量混ぜて炊き上げると糖質もカロリーも半分になる。せっかくの魚沼コシヒカリが台無しになって炊き上がる。スパゲッティーも蕎麦もまずいが減量のためには仕方がないのである。
「糖質が人類を滅ぼす」という医者が書いた本によると、我々の身体は現代人が普通に食べているような大量の糖質を全く予定していないらしい。農耕の恩恵が広く行き渡ったのが2000年前とすれば、ホモ・サピエンス20万年の歴史の中ではごく最近の変化であるというわけだ。一旦糖質を食べてしまうと糖質には脳内にドーパミンという快楽ホルモンを分泌させる効果があり、だから糖質にはヘロインと同じように中毒性があり、放っておけばどんどん取りすぎて体を痛めつけるという。
今生まれる子供の予測平均寿命は107歳なのだという。十数年後に癌が制圧されるほか、今後一気に進んで行く医療の進歩がそれをもたらすらしい。2030年代には血管やリンパ管内をパトロールする超微小な免疫ロボットが普及して通信によりAIにコントロールされがん細胞をやっつけるほか、血管の硬直を防いだり酸化や悪質タンパクを除去したりして寿命は120歳を超えると予測するアメリカの未来学者もいる。そして、2045年ごろにはとうとう老化をコントロールする段階に達し200年の人生が現実となるという予測すらある。
120歳とか200歳とかはとにかくとしても、2040年になれば100歳どおしの殴り合いが当たり前になったり、盛り場で若者が90歳のじいさんに投げ飛ばされたり、社会保障制度が崩壊して年金が出る100歳まで土木作業やウエイターなどを移民のバングラデシュ人と一緒にやらなくてはならなかったり、100歳で250ヤード飛ばすゴルファーだらけになったり、30歳ぐらいと80歳ぐらいで人生2回結婚するライフスタイルが定着したり・・・例がやや大げさかもしれないが、科学の進歩が指数関数的なスピードに移行する科学爆発の時代に入ったことは間違いないようである。好むと好まざるとにかかわらず、人生100年時代はもう現実なのだ。だから、俺はそんな時代を少しでもまともに生きていけるようにメタボを解消し、毎週のようにゴルフをやり、多くのサプリを飲み始めたのである。次々に未来予測を当ててきた67歳の未来学者レイ・カーツワイルは毎日60種類ものサプリを飲み、ジムでのトレーニングを欠かさないそうである。

大雪とクルマ

1月22日は大雪だった。

東京は昼過ぎから激しく降り始め、これはヤバイと思って3時半には会社を出た。
この日クルマで出社していた俺は、ナビタイムで帰宅の道路状況を見ると、霞が関インターから東名川崎インターまで規制なしの所要時間30分と出ていた。「これはクルマで何とかなるぞっ!・・電車も大混乱だろう」・・ここで俺は大きなミスジャッジを犯したのである。4年前の大雪の日にもまだ元気だった母と娘を乗せて勝浦へ向かう途中と帰り道で立ち往生となり親切な人々に救ってもらった顛末を書いた。俺は物事を都合の良い方向へ解釈したり予想したりしすぎる癖があり裏目にでることも多い。そしてなかなか学習しない。

東名川崎インターまでは45分くらいはかかったがほぼ普通に走れたのであるが、インターを降りてすぐの上り坂に差し掛かると動けなくなったクルマが点在しパトカーが出動していた。「これは大変なことになるぞっ!」と思ったとき、俺の車のノーマルタイヤは空回りをはじめ道路中央でもがき始めたのである。すると若いお巡り3人が寄ってきて「後ろから押すからローに入れて―踏み込まないでねー」と言いながらやりはじめ何とか200mほど登り平坦地まで押し続ける超親切を見せてくれたのだった。普段、俺は交通違反で捕まるたびにお巡りを徹底して怒鳴りつけていることは何度か書いた。しかし、こういう時になると俺は「ほんと、どうもありがとうございます。もうしわけありません。さすがの体力ですねえ。どうもどうも・・」などと極端な低姿勢に激変する。押し終わったお巡りは「たくさん税金払ってくださいねー」などと言い「たくさん払いますよー、ありがとうございますっ!」と言い別れたが、カーブの先にある上り坂で再び動かなくなり苦闘を繰り返したが断念し、バックで坂を下ったりバックでUターンもしながら再びお巡りが集まっている坂の下エリアに向かって行ったのだった。その間、ブレーキを踏むと横滑りを起こすのでサイドブレーキで降りようとしたがそれでも停車せずに斜めに滑っていって止まっている何台かにぶつかりそうになったが何とかクリアしたのだが、一番ヤバかったのは停車しているパトカーに突っ込んでいく時だった。4人のお巡りが「わー!」と叫びながら俺のクルマに飛びつき何とか制止させてくれた。パトカーにぶつけてぼこぼこにすればもっと面白い話が書けたかもしれないと後から思ったが、この時は俺も窓を開けて「わーっ!!」と叫んでいた。そして、それでもなお親切なお巡り達は「ここのガソリンスタンドにしばらく停めさせてもらってレッカー呼んだほうがいいですよ」と言いながらスタンドまでクルマを押してくれたのだった。

しかし、このガソリンスタンドがひどかった。65歳位のおっさんと20歳位の兄ちゃんがやっていたが、ガソリンを50リットル入れて「レッカーを電話で手配するからそれまで停めさせてくれ」と事情を話しスペースの端に停車していた。保険屋の損保ジャパンのオペレーターにはなかなか繫がらず電池も10%を切り、繋がっても2度も切って30分以上待たされた挙句「5時間はかかりますがそれも保証はできません」などと言われ「それじゃあ保険の意味ないじゃないのっ、もういいよ。」と言うとガッチャッという音を立てて切られる始末だった。みなさんも損保ジャパンはもう一つ入っているあいおい損保よりもはるかに感じが悪いので気を付けていただきたい。
そんな中で、スタンドの兄ちゃんがやってきていた。「主任ががたがた言ってるんすよ。いつまで停めてんだって。ガソリン入れてくれたことも話し僕はずっと停めていたっていいと思うんすがあの若いほうがうるさいんすよ。」「あっそう。あいさつでもしてやるか。」「そうっすね。それがいいとおもいまっす。」・・俺は事務室に入り、35歳位の一重なのに目が大きいいかにも薄情そうで鼻っ柱の強そうな若造に「申し訳ないですねえ。あとちょっと停めさせてもらえますか。レッカーの時間を知らせる電話待ってるもんで。」と言うと「あー大丈夫ですよ。来るといいですねー」などと言っていた。要するに若造は兄ちゃんにカッコをつけていたのだろう。さらに、5時間を知らされて再度事務室へ行き、「5時間と言われたんで、近くのコインパーキングでも探すので出ますわ。ありがとう。」と言うと「そうですかー。明日までここに停めていったほうがいいくらいかもしれませんが…」などと嫌な目つきで嘘を言っていた。川崎インター近くの出光にはこういう嫌な奴がいるのである。気を付けていただきたい。

コインパーキングまで何とかたどり着いたが、すでに20センチは積もっており、パーキングの所定位置に入れる手前で動かなくなった。俺は、横殴りの雪に当たりながらゴルフのサンドウエッジを出しタイヤ周辺の雪かきを繰り返し20センチずつ移動させながらあと10分と言うところまで来たとき、時刻は7時半を回っていた。「くそっ、クルマおいても傘もねえし家まで1キロはあるじゃねえか・・」こういうどうしようもない時に、なぜか突然、雪の上でバンカーショットのスイング練習を雪をぶっ飛ばしながら5回やったりするのはどのような精神作用なのだろうか。
・・その時、パーキングに軽のバンが入ってきて30歳くらいの丸顔の電気工事人ふうの男が下りてやってきた。「大変ですね―押しますよ!」と言ってやってくれ俺のクルマはすぐに収まった。しかし、男の軽バンも入り口で動けなくなっており、俺は押してやらざるを得なくなっていた。押すだけでなくバン周辺の雪かきも足とゴルフクラブでやり30分近くの苦闘に巻き込まれることになったのだった。俺が押してもらったのは5分。60歳が近づく俺がこいつにやってやったのは30分。俺はこの若者に完全にやられたのである。若者は読んでいた。野郎は「僕の家と同じ方と伺ったので一緒に帰りますか。」などと言っていたが、なんで見知らぬこんな奴と肩を並べて帰らにゃならんのかと当然思い、「少し休むから先行ってよ」と言って運転席にへたり込んだのだった。

その後、歩いて大雪が降りしきる坂道を上がっていき、傘を買いに途中のコンビニにぜーぜー言いながら入っていったとき、店員は落武者のような俺を見てびっくりしたツラとなって目をそらし、レジに行こうとしていた客は飲料コーナーへ引き返していった。

読者にとって今回の話はかなりつまらなかったと思うが、雪の日に車に乗るとこういうことになるというアホの見本を晒すことにも何らかの意味があるものと考えた次第である。